世界の縁に立つ-私の化学物質過敏症

化学物質過敏症(以下CSと略)になって、今年(2022年現在)で23年目になる。23年間も、このとんでもなく難しい病気と、ときに格闘し、ときには屈服させられ、悪戦苦闘、24時間バトルを繰り広げながら、やってきたのだなあと思うと、何ともいえない気分になる。

クラクラ・・・
クラクラ・・・

とにかくやっかいな病気である。身の周りにある「化学物質」に身体が反応する。大きなところでは、空気中に混じる農薬、車の排気ガス、ごみ処理場の煙、等々に始まり、身近なところでは、合成洗剤、柔軟剤、香料、印刷インクのにおい、塗料、化学繊維、煙草、消毒液、等々書き切れない程ある。それらを吸い込むと、頭痛、吐き気、目がチカチカする、悪寒、動悸、発汗、頭がボーッとする、咳、倦怠感、脱力そしてひどいときには呼吸困難、等々の症状に一気に襲われノックダウンである。まことにやっかい極まりないのである。おまけに合成洗剤や柔軟剤の香りなどは、自分が使えないのはもとより、他人さまが使っているそのにおいにまで反応してしまう。つまりそういうもので洗っている服を着ている人には、おいそれと近付けない。宅急便のお兄さんでもしんどい位なのだから、何とも大変である。

そうしてはっと気が付けば、50歳になっていた。50歳。そのうち約半分近くの年月を、この病と共にやってきたのか! そう思うと、何やら激裂に自分を褒め称えてやりたい気もする。よくやった、よく頑張ってきた、この扱いにくいことこの上ない、ポンコツのガンダムみたいな身体を抱えて。えらい、わたし。


発症したのは、27歳のときだった。1999年のことで、ちょうど巷では、ノストラダムスの大予言がどうなるのか、とか、2000年問題で湧き立っていた。(知らない方のために解説しますと、ノストラダムスの大予言は、1999年の夏、空から大魔神か巨大隕石か何かが落ちてきて世界が滅亡する、という予言で、2000年問題は、コンピューターのデジタル表示が「2000」に切り換わらず、年が明けた途端あらゆるところがオールストップするやもしれない、という危機のことである。どちらも結局何もなかった)

「いやー、どうしようね?本当にこの8月で世界が終わっちゃったら」

半ば冗談混じりで、友人が話していた。しかしその隣を歩きながら私は、いやそれ、私の場合はあるかもしれないな・・・と思っていた。漠然とだがそういう予感がしていたのだ。私がここで生活出来る時間は、もうそう長くはないのではないか・・・と。

なぜだかわからないのだが、ここ数年、ずっと体調が悪かった。大学を卒業する1年程前から、やけに疲れるようになり、倦怠感や疲労感が強く、体力が続かなくなっていた。一時期完全に治っていたアトピー性皮膚炎も復活、悪化し、にっちもさっちも治らなくなった。また精神状態も不安定で、ときどきうつになっていた。それでも何とか大学は卒業はし、その後専門学校へ通い始めたのだったが、どうにも体力が続かなく、入学してわずか1ヶ月半余りで自主退学。以後はなし崩しに自宅療養生活に突入し、半ば病人が体調の良いときだけ家事手伝いしかし端から見たら完全にニート、みたいになっていた。

これって病気なの?だとしたら何の病気なんですか?


病名が付かない。疲労感、アレルギー、うつ・・・症状はあるもののどれも中途半端過ぎて、一つの病気にまとまらないのだった。仮に病院へ行ったとしても、アレルギーはアレルギー科で、うつは精神科で、と各科で診察を受け薬を受け取るだけ。でも何か、それは違うような気がしていた。

何だかよくわからないまま、宙ぶらりんな生活を送っていた。寝込むほどの重症ではないのだが、かといって働けるほど軽症でもない。体調にひどく揺らぎと波があるので、アルバイトも無理。何にも属せないまま、ただ漫然と日々を送るしかなかった。それはけっこうつらいもので、何かじわじわと少しずつ、社会から離れ、遠い崖っぷちの方へと追いやられてゆくような、そんな感じがあった。友人知人が、就職してどんどん社会となってゆく姿を、ただ見ているだけしか出来ない。

それでもまあ、自分なりに何とかやってはいた。「女には『家事手伝い』という便利な身分があるんだぜ~」などと吹きながら、体調の良いときはもっぱら家の家事を手伝っていた。ゆっくりと養生していれば、いつか良くなるだろう、とわりと楽観的に考えてもいた。

そして、そんな宙ぶらりん生活も3年目に入ったこの年、99年。
年始めの冬から、体調ががくんと落ちた。例年冬は比較的体調が良いのだが、なぜかこの年は違っていた。疲労感は一層強くなり、うつもひどい。アトピーの悪化はさらにひどかった。あれこれ対策を立ててやってみるものの、体調の下降は一向に止まらない。「体力」という燃料タンクがあるのだとしたら、その目盛りが日一日とどんどん下がっていってるような感じだ。タンクの底に穴でも開いているのかいな。

この夏を越せるのだろうか・・・?


夏は一番、体調が下がる。暑さと、アトピーの悪化とで消耗するので、私にとっては一番きつい季節だ。冬の今こんな状態では、とても夏を越せるとは思えない。その自信もない。

そして八月になった。

私の住んでいる団地で、団地内にある植込みの木々や花壇の花々に、農薬による殺虫処理が行われることになった。いつもは素通りする団地の掲示板で、たまたまその告示のチラシを目にした。私はたちまち嫌な予感を感じた。

これ、やばいんじゃないのかなー・・・

なので農薬散布当日は、朝から他所へ避難することにした。図書館や本屋をハシゴし、スーパーのフリースペースのベンチで持参したおにぎりを食べた。そうして夕方遅くなるまで時間をつぶし、日が暮れてからやっと帰途についた。

団地の敷地内に入ったときは、特に何も感じなかった。少し空気がむっとして暑い(熱い?)ような気はしたが、それ以外は別に何ともない。においもなかった。大丈夫だ、何だ、ちょっと神経質過ぎたかな・・・そう思い、自宅へ戻った。

両親と一緒に夕飯を食べ、後片付けをし、お風呂に入った。いつもより疲れが強く、首の後ろや肩がやけに凝っている気はしたが、それはたぶん今日は一日中外に出ていたからだと思った。今夜はもう早く寝よう、そう思い、早々に寝仕度をした。


寝る前に、自室のベランダの窓をほんの少しだけ開けた。私の家は2階にあり、その窓のすぐ下は植込みで、椿の木が3本程植わっている。椿にはチャドクガという蟻がつくといわれており、農薬散布は特に念入りに行われているはずだった。だから警戒して、2センチ程しか開けなかったのだ。

その2センチの窓から、外気がすーっと入ってきた。とその直後、急に身体がずしっと重くなった。そしてすぐに力が抜け、足も立っていられなくなり、その場に倒れ込んだ。

寒気がした。手足が猛烈に冷えていた。まるで氷水のバケツをざばっとかけられたかのようだ。吐き気が、下からぐーっとせり上ってきて、胸と喉の辺りでどろどろ渦巻いている。気持ちが悪いが、しかし吐けない。

意識もヘンだった。真っ二つに分裂していた。ああ~、なんか今おかしなことになっている・・・とひどく冷静に状況を把握している部分と、まるきりごちゃごちゃのぐちゃぐちゃになっているところとに。

そのごちゃごちゃになっている部分では、この場にまったく関係のない言葉―たとえば「オランウータン」とか「地下鉄○△駅とか」―が急に浮かんでは消えていったり、またやはりこの場には何の関連性もない写真のような情景が、まるでスライドショーのように次から次へとばばばばばば・・・・と凄まじいスピードで出ては消えてゆくのを繰り返したりしていた。脳のどこかが、もの凄い勢いでぎゅんぎゅん回転しているのが自分でもわかる。これはおかしい、と冷静な方の私は思った。完全にどこかがおかしくなっている。


とにかく開けた窓を閉め、這いつくばって部屋の外へ逃げた。居間の方では両親がまだ起きていて、テレビを観ていた。

た、たすけてー・・・

そう言おうとしたが、言えなかった。しゃべれないのだ。なぜか口から声が1つも出てない。と同時に「助けて」という単語も、思い出せなくなっていた。私は何を言おうとしていたんだっけ?どういう言葉で??何も出てこない。空白だ。頭の中に言語スクリーンというものがあるとしたら、それは完全に真っ白で、キーを打てども打てども画面に言葉が出てこない、そんな感じだった。失語症状態というのはこういうことをいうのか。何かに閉じ込められているかのようだ。

仕方ないので「あー」とか「うー」と唸り声を上げ、両親が気付いてくれるまで、それを続けるしかなかった。

これが私の、一番最初の発作だ。農薬による発作だった。そしてこの日を境にして、体調は坂道を転げ落ちるようにして悪化していった。本当に、「坂道を転げ落ちるように悪くなる」というのはこういうことをいうのか、と思ったほどの、あっという間の悪化ぶりだった。日一日と、いや刻々と、身体がおかしくなってゆくのがわかる。これまでは何とか、追い詰められてはいても崖っぷちのきわきわで踏み留まっていたのが、ついに落ちたのだと思った。身体はこれまでとは、全然別次元のレベルに入り、新たな様相を見せ始めた。つまり私は、化学物質過敏症を発症したのだった。


それからの約3年間は、見ようによっては実にハランバンジョーな日々になった。引っ越しに次ぐ引っ越し、家移りに次ぐ家移りの連続である。住まいを転々と変えたこと、実に7回。そのうちの3回は、家族ごとの大々的な引っ越しになった。これはCS患者にはさほど珍しくない”CSあるある現象”の1つだが、それにしても難民のように各地を転々とするのは、経済的はもとより精神的にも、大変に大変だった。この過程でよくまあ家庭が崩壊しなかったものだ、と今でも思う。私の両親の強靭な精神力に、ただただ感謝である。

そして8回目に、今いるところへ至り着いた。甲信越地方にある、小さな村(当時)である。そこの土地を買い、家を建てた。家は、国産の木材とクギと炭化コルクという断熱材とホーローだけで建ててもらった。その家に両親と私と猫1匹とで、引っ越したのだった。

それでも、すんなりとは治るわけではなかった。その土地でも紆余曲折さまざまなことはあり、そのたびに倒れたり寝込んだりを繰り返した。ここも駄目かな・・・と思ったことも再三ある。しかしもう一度引っ越すことは不可能で、だからあとはひたすら、化学物質を避ける日々を積み重ねてゆくしかなかった。そうして何とか、やっと限定範囲内での健康を取り戻した。時間はかかった。越してきてから、約十年が過ぎていた。


発症してまだ日も浅い、あるとき。急に一瞬にして、と思った、というか理解したことがある。

完全にばっきりわかれたな・・・

この「わかれた」は、「分かれた」であり、また「別れた」でもある。つまり自分のいるところと、友人知人、親類縁者一同のいるところとは、今や完全に分離し、ばっきりとわかれてしまった、ということだ。私と彼らとの間に、突然巨大なお城の堀割のようなものがゴゴゴゴ・・・と現れてきて、完全にその間を断ってしまった、という感じか。

出典:Arizona Geological Survey

私は今、ここにいる。しかし友人知人親類縁者一同は、向こう側にいる。自分が立つこの岸と、みんなのいる向こう岸のその間には、深くて黒い水を満々とたたえた、超えるのもちょっと難しそうな巨大な掘割がある。そう思った。

橋が掛かることはあるかもしれない。が、私がその橋を渡って向こう岸へ行くことは、多分もう出来ない。なぜなら向こう岸には、「化学物質」があるからだ。農薬があり、香料があり、合成洗剤があり、消毒剤、煙草、床ワックス、等々がある。そしてそれらを吸い込むと私の身体は、たちまち頭痛、吐き気、脱力、悪寒、最悪な場合は呼吸困難、等々の症状に一気に襲われる。どんなに向こう岸へ行きたいと、帰りたいと希っても、もう無理なのだ。


私は、遠い向こう岸に見える街を、じっと眺めている。時間は夕暮れどきで、遠くに見えるその街には、ぽつぽつと灯りがともり始めている。きれいで、華やかで、そして賑やかなその灯り。その下にはたぶん、人が大勢いて、それぞれが活動して、活気に満ちている。社会というものがあそこにはある。かつては自分もそこにいたのだ。同じ空気を吸っていた。しかし私はもう、そこには入れない。そこに流れているその「空気」ゆえに、もう戻れないのだ。

とそんなふうにずっと思っていた。私自身は、このCSという病気のせいで、「世界」から転げ落ち、「社会」からも切り離され、そうしてずっとずーっと端の端っこの方に流れ流された。江戸時代の「遠島」みたいなものか。その荒れ果てた、ペンペン草も生えてない枯野っぱらみたいなところで、1人籠っていじいじとしながら、生きてくんだろうなぁ。まあ仕方ないやなそれも、根っからのインドア派だしな私。未は自宅で野垂れ死に。まぁそれも人生、などと。

ところが。
何か最近、こっちの住人増えてないかい・・・?


絶海の孤島に一人流されたと思っていたのに、何やらこのところ、こちら側にやって来る人がやけに多い。あちらの「世界」や「社会」から、ぽろぽろと転がり落ちてきた人が、ほうほうの呈でこの島に、「こちら側」にやってくる。

それは、CSばかりではなかった。発達障害や自閉症スペクトラムの人がおり、慢性疲労症候群/筋痛性脳脊髄炎の人がおり、全身が激しい痛みに襲われる。―あのレディー・ガガもかかったという―繊維筋痛症の人がいた。過敏性大腸炎の人もいた。うつの人がおり、引き込もりの人がおり、何らかの依存症を抱えた人がいる。アレルギーや認知症の人は、今は大挙して押し寄せてきた。どの人も皆、あちらの「世界」や「社会」では、多かれ少かれ生きづらさを感じ、悪戦苦闘していた。病気はこちら側の専売特許だと思っていたのに、どうも今や、そうでもなくなってきたみたいなのである。

そしてとどめが、コロナである。コロナウィルスの感染拡大で、誰もがいつ、自分の健康が襲われ損なわれるのか、わからくなってきた。


感染拡大で、人々が一勢にマスクを着用し始めたとき、私は奇妙なある感覚を覚えた。

CS患者はもともと、マスク常用者だった。嗅覚過敏があり、人より何十倍も強くにおいを感知してしまうので、マスクなしでは通りも歩けない。いつも顔の半分を大きなマスクで覆っているのが、私たちCS患者の一大特徴である。

それがコロナを機に、ほぼ全国民がマスク常用者になった。一方はにおい防止のため、一方は感染防止のためと用途は違うのだが、しかし空気を恐れている、という意味では変わりがない。自分の周囲を流れる空気を、つねに警戒していなければならない状況にあるというのは、コロナでもCSでも、奇妙に一致していた。

加えて、コロナの後遺症がある。

コロナの後遺症では、一定の割合の人に、慢性疲労症候群/筋痛性脳脊髄炎と同様の症状が出ているという。疲労感倦怠感が強く、体力が続かなくて、働くこともままならず退職を余義なくされる人もいる。

実は慢性疲労症候群/筋痛性脳脊髄炎は、CSと親類のような病気だ。「類縁疾患」と呼ばれ、その病態、機序には重なるところが多いといわれている。

参考文献
  • 『BRAINandNERVE 第70巻第1号 筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群の今』
    所収「筋痛性脳脊髄炎/慢性疲労症候群の診断と治療」倉恒弘彦
  • 「種々の症状を呈する難治性疾患における中枢神経感作の役割の解明とそれによる患者ケアの向上」 平田幸一
    厚生労働科学研究費補助金(難治性疾患等政策研究事業)総括報告書

奇妙な感覚、とはつまり、コロナウィルスの出現でもって、不思議と「世界」の方が、CSに近付いてきているのではないか、CS的になってきているのではないか、という感覚のことだ。私の勝手なこじつけかもしれないが、どうもそう思えてならないのである。

コロナ感染による病態、症状と、CS症状が似ている、同じだといっているわけではない。そこは似てはいないし、同じでもない。

ただ、CSや数多くの原因不明の難病、増え続けている精神疾患や依存症、アレルギー、認知症、そして免疫を奇妙にかく乱するコロナウィルス。それらの病いの下には、ある共通する要因があるのではないか?と思うのである。それらの病いが発生する、それを促す、共通の地盤のようなものが。


「世界の縁に立つ」というタイトルは、ふと浮かんできたものだった。

昔古代の人たちは、地球が球体であるとは知らなかったので、海をずっと行くと、その果てで「世界」は終わり、海は切り立った断崖となってすべてはその向こう側へ落ちてゆくものだと考えていた。地球まっ平説(?)である。

私自身ある時期、その果ての果て、海の尽きるその切り立った断崖のようなところまで、流されたと感じていた。人が誰もいない、流れる水と空しかない、明るいがおそろしくがらんとしたところ。今でもたまに、いると思うときがある。そこから、海水もろとも落ちると思ったこともあるし、落ちた方がましだと思ったこともある。

しかし最近気付いたのは、どうもそこにいるのは、私だけではない、ということだ。いや「私だけ」と思っていた自分は、何と思いあがっていたことか。


そこにはたぶん、いろいろな人たちがいる。病気を抱えた人ばかりではなく、貧困下にある人、暴力を受けている人、たくさんいる。

ならば私たちは、その崖っぷちに立てないだろうか。流れてくる水の圧力や、吹きつける強い風にあおられながらも、その世界の果ての縁に、踏ん張って立つことが出来ないだろうか。

そうして、断崖の下に目を向けるのではなく、恐くてもその崖っぷちに背を向けて、流されてきた方を、かつて自分たちがいた「世界」の方へ、目を向ける。もう一度目を向ける。そして叫ぶ。声を上げて叫ぶ。きっとその声を聞いてくれる人は、いる。私はもう一度、人も、社会や世界を、信じたいと思う。

そんなイメージである。どこまで書けるかわからないが、少しずつ書いて発信してゆけたらと、思っている。読んでくれる人が一人でもいて、何かを感じてくれれば、これ程嬉しいことはない。

(このページは昨年11月~12月にブログで公開した物語を1つにまとめたものです)

 
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