かなり長い間、私は自分の病気を知らなかった。
化学物質過敏症(CS)という病気の存在を初めて知ったのは、26歳のときだ。すでに過敏症らしき症状は出ていて、それ以外にも身体のあちこちがおかしくなっていたのだが、それが1つの「病気」であると知るまでに、ゆうに5年は、かかったのだった。
身体がおかしくなり始めたのは、まだ学生の21、22歳頃からだ。東京の世田谷にあるアパートで一人暮らしを始め、1年程過ぎた辺りから。
まず一時期完全に治っていたアトピー性皮膚炎が、再発した。最初は手の平にブツブツと出てきて、それが年ごとに全身に広がっていった。
それから、うつが出てきた。気分が落ち込むことが多く、極力人に会いたくない。また人に会っても、なぜか思うようにしゃべれなくなった。言葉がとっさに、口から出てこないのだ。なぜこんなにしゃべるのが下手になったのか、自分でも訝しむ程。
また、ときどき引き込もりにもなった。どうしてか、強力に、もう梃子でも外へ出たくなくなり、アパートに一人閉じ籠ってしまう。ゴールデンウィークの間ずっと、買い物にも出ずアパートに居続けたこともあった。
そして、うっすらと過敏症らしき症状も出てきた。
最初それは、水から始まった。
手を洗ったりシャワーを浴びたりと、肌が直接水(湯)に触れているとき、「きついな・・・」と感じることがあった。塩素なのか、それとも別の何かなのかはよくわからないのだが、しかし「何かが水に混じっている」という感覚はつねにあり、それが「きつい」。
また時間が経つにつれ、その肌に滲みるような感覚が増幅してゆき、「重い」と感じるようになってゆく。水が、シャワーで浴びる湯が、肌に重い。何というのか、水のなかに石油か鉛でも入っているような、そんな重み。
そしてまた、車の排気ガスにも、いつの間にかひどく敏感になっていた。車の排気ガスを身体に浴びるのが、「嫌だな」と思うように。それ以前は車の排気ガスなんて、そこにあっても感じないばかりか、見えないも同然のものだったのに。
いつしか、自転車で道を走るときも、車を避けて裏道へ裏道へと、道を選ぶようになっていた。
しかし、大学への通学途中に一ヵ所だけ、どうしても通らなければならない交差点があった。大きな幹線道路との交差点で、ひっきりく車やトラックが走っている。おまけに上には高架があったので、排気ガスが空に抜けず充満していた。そこで信号待ちに引っかかるのが、たまらなく苦痛だった。待っている間中排気ガスを浴び続けるし、また青になった途端、車が一勢にエンジンを吹かす。当時はディーゼル規制も半端だったので、トラックなど、もうもうとした黒煙を一気にぶわーっと吹き出していた。
そこで排気ガスを身体に浴びてしまうと、全身がかゆくなった。特に、アトピーが出ている首まわりや腕の関節など、途端にちりちり、むずむずとしてくる。かゆい。かなり強烈に、かゆいかゆい!
なので私は、大急ぎで自転車を走らせ、大学の駐輪場に自転車を置くと、何はさておきすぐにトイレへ駆け込む。そこの水道で、首や腕をざぶざぶ洗うのだ。この場合は水質がどうのとかは言っていられない、とにかく洗って、肌にくっ付いている排ガス成分を洗い落とす。
洗い落としてしまえば、かゆみはスッと引き、なくなった。だからこう思った。
これってつまり、排気ガスだよね。車の排気ガスに肌が反応しているってことだよね・・・。
洗い流せばかゆみが止まるのだから、当然そういうことになる。そうか、アレルギーは車の排気ガスでもひどくなるんだな、と思った。し、またそれ以上に、
車の排気ガス自体が、アレルゲンなのでは・・・?
と思った。身体の何となくの感じで、漠然とだがそう思う。「これ(=排気ガス)にダイレクトに反応しているな」と感じるのだ。もしかしたら排気ガスが、アトピーを発症させているのではなかろうか?
と、こんな数々の症状が、世田谷のアパートにいるうちに始まり、また年々ひどくなっていった。アトピーの悪化、うつや引き込もりなどの精神症状。そして、水や排気ガスに対するうっすらとした反応。あれこれ対策してみるものの、たいして良くもならず、症状はずるずると続きながら確実に悪くなっていく。
ところが。
実家に帰ると、なぜかこれらの症状は治まってしまう。ほとんど劇的、といっていい程に、つるりと良くなってしまうのだ。
大学4年次の夏、アパートのあまりの暑さに「やっとれん!!」と思い、実家に帰ったことがあった。
それでまず感じたのが、空気の良さと水の良さ。うわー、何コレ?めちゃくちゃ身体ラクじゃん!!車の排気ガスは少いし、水質も良い。シャワーの水が、軽いよ軽い!
また驚いたのは、うつまですっかり消えてしまったことだった。アパートにいた頃は、あんなに悶々と悩みに悩み、あぁもう死にたい・・・永遠に眠っていたい、来世はクラゲになりたい・・・などと延々とぐるぐると最限なく考えていたというのに。それが嘘のよう。カラッと青空。はて、私は何を悩んでいたんだっけ?という感じ。
当時の私は、しかしこのうつが消えたのは、一人じゃなくなったからだろう、と考えていた。両親や猫と一緒にいて、「孤独」な状態ではないからだ、と。
でもそれも、多少半信半疑ではあった。もともと私は、そう「一人じゃいられない」人ではなかったからだ。一人暮らしが決まったときも、父はブツブツ言っていたが、喜び勇んで家を出たような私だ。
そんなに私、一人がつらかったろうか・・・?
ともあれ、その夏は結局、約一ヶ月半ずっと実家で過ごした。あまりにも身体がラクだったからだ。空気と水が良くなるだけで、こんなにも心身は軽く、健康で明るくなるものなのか。肌はつるつるになるし、うつもないし。もうゴキゲン、カラッと青空、快調快調、である。
しかしそれでも、やはりアパートに戻らないわけにはゆかない。授業も始まるので、結局9月の第2週辺りに、また世田谷へ戻った。
すると。
今度はまるで、映像を逆戻しにするかのように、みるみるうちに身体が悪くなっていった。こちらもまた劇的、といっていい程の、凄まじい悪化ぶり。つるつるになっていた肌にはまたアトピーが復活し、水と排気ガスへの反応も以前にも増してひどくなる。そして何より凄かったのが、うつの激しさだった。
何をどうやっても、気分が暗く、重い。全然浮上しない。そして毎日、「死にたい・・・」と思う。いやちょっと待て、たかだか2週間前の私は、ゴキゲンでカラッと青空だったはずだよね。なんでこうなっちゃうんだ!?
さすがに、おかしい・・・と自分でも思った。特別自分を落ち込ませるような出来事は、この2週間何も起きていない。なのになぜ、こんなにも落ち込み、執擁に「死にたい・・・」と思うのか。なんでそう思うのか。だいたいどうして私、死ななくちゃならないんですか!?ヘンじゃないか。
とにかく、また実家へ帰ることにした。何がどうなってるのかわからないが、直勘的に、これ以上ここにいてはいけない、と思ったのだ。何を置いてもすぐ、逃げなければ、と。
大きな旅行バックに、とりあえず着る服と、教科書やノート類と、あとは日記と数冊の本を入れた。最低限大事な物だけ持ち、後はもう、火事で燃えてしまってもいい、と思った。
たった2週間過ごしただけで、心身をずたぼろにしたこの部屋には、もう二度と戻ってこられないだろう。そう思った。もはや私は、この部屋でもう一晩過ごすだけの体力も、残っていないと感じた。ここは、おかしい。何かがヘンなのだ。水か。空気か。家(アパート)自体か。それともその全部なのか。
しかしそれでも、このアパートの部屋に対する愛着、のようなものは、依然として残っていた。
初めて、親元を離れて一人暮らしをした、この部屋。サークルの同輩や後輩を呼んで、一緒に鍋をつつき夜っぴで飲んだりすることもしばしば。また一晩中、大切な友人と深刻な話をしたこともあった。その自由さと、解放感。私はこの部屋で、初めて濃密な”私”というものを、手に入れることが出来たような気がする。
一人暮らしは、私は楽しかった。決してつらいものではなかったのだ。つらかったのは、身体がどんどんヘンになってくる、そのことの方だった。
もう二度と、戻れないだろう。アパートの鍵を閉めたとき、そう思った。何か、大切なものが、私の手から離れていったのだ。
実家に帰ると、症状はまたすんなりと治っていった。アトピーは引っ込み、うつもなくなる。水への反応もほぼ消えた。が、排気ガスへの反応だけは、依然としてあった。交通量の多い場所へ行けば、やはり肌はちりちり、ちくちくしてくる。単に実家周辺は排気ガスが少ないから、反応も少ない、ということなんだろう。反応自体が消えたわけではなかった。
症状は全体に小康状態になったが、なぜかその後出てきたのが、「疲れやすさ」だった。
疲れる。なんでかすぐ疲れてしまう。何かをしていても、すぐにぐてっと疲れてしまうのだ。あれ?私こんなに、体力なかったっけ・・?
以前なら平気で出来ていたことが、今はその半分位しかやれなかった。大学には実家から通うことにしたのだが、その行って帰るだけで、もう身体はへとへとになる。
またどうしてか、この頃急に体重が、がくんと減った。
私は、身長は約155センチで、体重はそれまでは、50キロから52キロあった。マックスは52キロで、さすがにそうなるとちょっと、身体重いかなー、顔も丸いかなぁーという感じ。しかし20代前半だから、食べるのもよく食べる。ビールにゃやっぱトリの唐揚げよね!というお年頃である。
それが気が付くと、43キロまで落ちていた。
ダイエットなんてもちろんしていない。運動はましてや。なのにいつの間にか、気が付けばジーパンのウエストがゆるゆるになっていた。
マックス時と比べれば、9キロ近く体重が減ったことになる。友人知人も驚き、「痩せたねえ」「ダイエットしたのー?」と若干羨ましがっていたが、私はとてもそう素直には喜べなかった。何もしてないのに、体重が突然減るなんて、ひどく不気味だった。
体重が減ったから、体力も落ちちゃったのだろうか・・・?
この体力のなさと疲れやすさは、実のところかなり問題だった。
というのも、私は大学卒業後に、音響、照明系の専門学校に通う予定になっていたからだ。
大学在学中、私は演劇サークルに入り、演劇活動に没頭していた。芝居の魅力に、文字通り取り憑かれちゃったのである。授業なんかそっちのけで、芝居、芝居。「将来の夢」は、北島マヤみたいな(古い)大舞台女優!!
ではなくて、裏方スタッフになりたかったのだ。
なかでも、芝居の音響が好きだった。
戯曲のその場面に合うような音楽、楽曲を探してきて、何曲か選び、稽古場でかけてみる。と、途端にその場に、日常とは違う劇空間の空気が現れ、漂い出す。役者たちの演技もそれにのる。音楽による効果、「音効」でである。それがとても、面白かったのだ。
なんでか、私は曲の選定が上手かった。その場にしっくりとくる曲を探してくるのが、得意。何しろ私はこれを、小学校の頃の「おしばい発表会」の頃から、やっていたのだ。兄の持っていたアニメのサントラレコードを拝借し、テープに落としてかけてみたのが最初だった。忘れもしない、宮崎アニメ『風の谷のナウシカ』のなかの一曲であった。筋金入りである。
演劇の世界で、生きてゆきたい・・・!
それも音響スタッフとして。それが私の「将来の夢」だった。そのためにも、卒業後は専門学校へ行こう、と思い、学校も早くに決めていた。
そこへ持ってきて、この体力のなさ、疲れやすさが出てきたのである。
はっきり言って、演劇や芸能の世界は、ブラックもいいところである。1に体力2に体力、3も4も5もみーんな体力で、体力がない奴などお呼びじゃない。
ましてや、「排気ガスが多いところはちょっと・・・」なんて言おうものなら、フッと鼻で笑われ「キミ明日っからもう来なくていーよ」となるのがまあオチである。身体が弱い演劇人、なんて、高所恐怖症のパイロット、血が恐い外科医、みたいなもんである。
いやそれ以前に、専門学校に通い続けられるのかも、はなはだ怪しかった。その学校は都内にあり、実家からだと通学に1時間半以上かかる。以前ならまだしも、今の体力ではどうか・・・保つのか・・・
難所もあった。通学の最後に乗る、バスがそうだった。新宿駅西口の、巨大バスターミナル。めまいがするほど多くのバスが離発着しており、おまけにタクシー乗り場まである。さらに上には高速道路が走っていた。排気ガスという点からみれば、最悪なところである。
それでも、今更どうにもしようがなかった。「将来の夢」を懸っているし、他に選択肢があるわけでもない。
通い始めると、最初の1週間はわりと平気だった。「お、何だ大丈夫じゃん」という感じ。ところが2週間目辺りから、ぐっと疲労感が増してきて、次第にその疲れが取れなくなっていった。一日の疲れが、一日の睡眠では全然解消しない。どんどんどんどん、疲れが溜まってゆく。何時間眠っても、駄目。
しまいには、朝起きたときから、ぐったり疲れているようになった。
朝日が覚め、布団から起きてまず思うのが、
あー・・・疲れた・・・
なのだからもう何をかいわんや。今起きたばかりなのに、身体はもうぐでぐでに疲れている。まるで眠っている間、身体だけ町をフルマラソン走ってたんじゃないの!?と思う程だ。この異様な疲れ、倦怠感は何なのだ。
どこからくるんだ。
そしてある朝、遂に起き上がれなくなった。
身体が重い。いや重いなんてものではなく、巨大なまな板で上からぎゅうううっと押し潰されているような感じ。身体が布団に貼り付いて、そのままずぶずぶとめり込んでゆくかのようだ。指一本動かすのすら、つらい。
それでも無理に身体を動かすと、全身はガチガチのギシギシで、まるで油の切れたガンダムみたいになっていた。つまり要するに、全身硬直。石化。う、うごけ、な、い・・・!!
原因はやはり、排気ガスじゃないか、と私には思えた。排気ガスへの反応が、日を追うごとにどんどんひどく、激しくなっていたからだ。
もはや私にとって、新宿駅西口バスターミナルは、「魔の空域」と化していた。そこでバスを待っていると、空気がビシビシ肌に刺さってくる。最初の頃の、ちりちり、ちくちく、なんて可愛いレベルではなく、何というかもう、細かいサボテンの棘か、小さな針みたいなもので、全身をぶすぶす刺されているかのように感じる。イタイイタイ!空気がもうイタイ!空気を痛く感じるようでは、もうあかんわ・・・。
専門学校は、こうしてあっけなく終った。もはや自主退学せざるを得なかった。4月頭に通い始め、5月の半ばにはもう駄目になったのだから、わずか一ヶ月ちょっとしか保たなかったことになる。体調が崩れ始めてから、雪崩を打つようにどんどん悪くなるまでが、物凄く早かった。それと同時に私の「将来の夢」の方も、泡となって消えていった。
それで気が付けば、半ばなし崩し的に「療養生活」に突入していたのだった。
最初の1・2ヶ月は、ほとんど病人で寝たり起きたりの生活だった。が、その後はやや回復し、家で基本的には静かに過ごして、ときどきは家事手伝いなど簡単な仕事をする、くらいなら支障ないようになった。
が、これがちょっと活動範囲を広げるともういけない。たまに友達と、たとえば渋谷辺りに出て映画なんか観て半日過ごし、帰ってくると、次の日はどっと疲れて寝ているしかなくなる。なんでか、渋谷にいる最中ではなく、その翌日に疲れがどっとくる。良いのやら悪いのやら。でも映画くらい、観たいじゃんかよう。だからもう、翌日は寝込むことを想定済みで、出掛けるんである。
加えて、もう一つやっかいなことが出てきた。
あ、あああー・・・2時だ・・・
目が覚め、時計を見てがっくりする。時刻は2時。もちろん午後の2時である。あぁ今日もやっちまったと、がっくりうなだれた。罪悪感ハンパない・・・。
朝、起きられないのである。どうしても午前中に起きられない。昼頃目が覚めればいい方で、たいていは1時2時になってしまう。
逆に夜は、早くは眠れない。日付が変わる前に眠れることはまずない。全然、眠くなんかならない。
どころか深夜の2時3時が、一番元気なんである。目はランランと冴え、頭もクリアー、さぁ何でもやるぞ、やれるぞ!ってな感じなのである。勇気凛々大躍進!誰もが寝静まっている深夜にこんなに元気でも、ほとんど意味ないのであるが。
睡眠サイクルが、おかしい。身体に本来備っている体内時計、サーカディアンリズムというやつが、完全に狂ってしまっているのだ。
何度か、このリズムの乱れを正常にしようと、あの手この手でやってみた。
目覚ましをかけ、眠かろうが何だろうが強制的に、朝9時には起きるようにとしてみた。これを1週間も続ければ、自然と朝型に戻るのではないか?
と、確かに起きることは出来た。目覚ましで起き、顔洗って服着替えて。しかし頭はボーッとして、およそ何も考えていない。つまり身体が縦になっているというだけで、頭の芯は完全に眠っている。眠い、のではなく、起きていない。それでそのうち、縦になっていた身体もぐんにゃりとしてきて、結局横になり眠ってしまうのだった。あー、駄目だこりゃ。
「睡眠障害」という言葉を知ったのは、これよりずいぶん後のこと。当時はこれが、CS(化学物質過敏症)の数多くある症状のうちの一つであるとは、まったく知らないしわからなかった。ただただ、自分の「怠け癖」の産物だろうと、思い込んで疑わなかった。
うつなどの精神症状があり、加えてこの”朝起きられない”現象があったので、私はその他の症状―疲労感、水や排気ガスへの反応―も、多分に、「精神的なもの」ではないか、と思うようになっていった。
心因性・・・っていうやつなのかな・・・
世田谷アパートでのあの激しいうつが改善したのも、実家に戻り「孤独」ではなくなったからだ、と考えた私だ。だから同じように、これらの不可解な症状も、「精神的なもの」が多分にあるんじゃないかと思うのは、ある意味無理からぬことだ。
ただそこには、私の周囲にいる人たちの、はっきりとそうは言わないものの、どこかではそう捉えているというその”空気”を、私が察し、それをより自分の奥深くに取り込んでしまった、という面は少からずあった。ときどき、ふとした折に、それは小さな電波のように、伝わってくる。
心因性・・・ってやつなのかな・・・
自分のこれらの症状は、たとえば学校に行きたくなくて、玄関で靴を覆いているとお腹が痛くなってくる子供のそれと、同じなのではないか。私も実は、社会に出たくなくて、親元でぬくぬくしながら好きなことだけやっていたくて、で、こんなふうな症状を自らの身体に起こさせているのではないか。そういう自覚は自分にはないけれど、でも「本当の私」は実は、そう思っているんじゃないか・・・?
そんなふうに思うようになる。現に好きな映画なら観に行けるわけで、ならばなぜ、アルバイトくらい出来ないのか?やりたいことは出来るくせに、やりたくないことに対してだけ、体調を理由にサボって怠ける身体の癖が付いているのではないか?
一度「心因性」だと思うようになると、それは簡単に次のような考えに転がる。
なら、その精神、「心持ち」の方を変えればいいのではないか。もっと社会に出よう、いろんな人と積極的に交流しようと思い、実行すればいいのではないか。要は何事も、「気の持ちよう」、なんじゃないか。
何であれ、自分の精神次第、気分次第、なのだという超マッチョな精神論に、なり替わってゆく。何事も気合、やる気、根性だ!
それで懸命に、意識変革、行動変革してみるわけである。アルバイトを始めてみたり、ボランティア活動に参加してみたり。
しかし最終的にはいつも、「疲労」で挫折した。「疲れて」バイトは続けられなくなり、「疲れて」ボランティアも行けなくなる。周囲はその理由に驚き呆れた。疲れるって・・・、そりゃ仕事すれば少しは疲れるよ。果して、身体が鉛の塊のようになって動けなくなるのを、「疲労」というのかどうか。
しかし、一度「心因性」だと思ってしまうと、それすらもまた、「心因性」が原因だと思うのだ。自分でそう思う。仕事に対する、ほんのささいな否定的感情が、「疲労」の引き金になったのではないか。そんなふうに考えたから、症状がまた出てしまったのではないか。だってその証拠に、症状はまた出ているじゃないか。
「心因性」の罠である。症状が出ればどっちみち、それは私(=患者)のせいだということになる。「気の持ちよう」を変えて、もっとリラックスしよう。明るく前向きに。そんなふうに暗く考えているから、身体も治らないんじゃない?
「心因性」の罠である。いやほとんどこれは、呪いである。
いつしか私は、自分の身体と心の両方を、深く疑うようになった。つねに心の動きを見張り、監視するように。自分で自分を疑うのだ、信用出来ないモノとして。
あのときああなったのは、私がこう考えたせいではないか、このときああなったのも、私が・・・
自分に対する自信、信頼のようなものが、どんどん崩れて削り取られてゆく。そうして嫌いになってゆく。身体はつねに私を裏切り、その裏をかく。心もまた意のままにならず、私に隠れて勝手なことを考え、身体をおかしくする・・・
けれど、自分で自分の身体を疑い、そのうえ心まで疑ってしまったら、あとには何が、残るんだろう?
そんな混乱のなかにいた。すべてがどこかちぐはぐで、掛け違っているような日々。
どこかに原因はあるはずなのに、それが私にはわからない。見えてこない。霧の中で迷っているかのよう。濃い霧に包まれ、私はただウロウロ、右往左往。
それでも、何か原因が、そして法則性が、あるような気はしていた。今私には見えていないだけで、でもどこかには、あるんじゃないか?
そんなとき、あるテレビ番組を観た。夕方の民放ニュースのなかの特集で、たまたまテレビをつけたとき、それがやっていたのだ。
シックハウス症候群・化学物質過敏症の特集。それはこんなふうな内容だった。
ある家族が、家を新築し、移り住んだ。すると入居直後から、さまざまな異変が身体に出てきた。頭痛、喉の痛み、目がチカチカする、吐き気、異様な倦怠感・・・等々。
しばらくすると、それとはまた違う、不思議な症状が顕れてきた。
その家族の母親は、たとえばスーパーに買い物に行くだけでも、困難を感じるようになった。あらゆる「におい」を鼻に感じ、苦しくて倒れ込みそうになる。
20代の息子の方は、大学への通学がつらくなってくる。通学途中の車の排気ガスや、また大学構内の床ワックスがきつい。そして遂に、教室の中に入れなくなってしまった。学校には、休学届を出すしかなかった。
病院を幾つも受診し、必死になって調べた。そして浮かんできたのが、
シックハウス症候群・化学物質過敏症
という病気の存在だった。
シックハウス症候群・化学物質過敏症
家の建材として使われている材木や合板、壁のビニールクロス、ペンキなどの塗料、床下に散布される白蟻駆除剤。それらから揮発して出てくるホルムアルデヒド、トルエンやキシレン、有機リン素殺虫剤などの化学物質を、つねに呼吸から吸い込み続けることによって、身体が化学物質に強く反応するようになる。
症状が進むと、発症原因となった物質以外の化学物質にも反応を示すようになる、多種性化学物質過敏症(MCS)に移行することが多い。
根本的な治療法、薬はなく、唯一効果があるのは、反応物から離れ距離を置くこと、極力暴露(ばくろ)を避けること、だった。
つまりそれは、「家」がその反応物であった場合、患者となった者はその「家」を捨て、出てゆくしかない、ということを意味していた。
母と息子は、新築の家を出て、古い借家に移った。苦しい日々が、ずっと続いている。
観終わったときには、すでに強く確信していた。あぁ、私もこれだ、この病気に間違いない、と。
そのときの感覚は、一種独得というのか、不思議なものがあった。
何というか、天からすとーんとまっすぐ自分めがけて、「答」が落ちてきたというような感じ。その瞬間、カチッと何かがはまり、大いに腹の底から符に落ちていた、というような感じ。そうして絶対の確信が、身体中を駆け巡る。そう、まさにこれなんだ、というような。実は頭より先に、身体がそれを理解していたのかもしれない。
化学物質過敏症。
そうだ、その通りじゃないか。私は化学物質に人より過敏に反応をしている。番組の中のあの、眼鏡をかけた物静かな青年と同じように、私も排気ガスに反応している。
と同時に、はっと気が付いた。
排気ガスとは、まさに「化学物質」であったことに。
霧が晴れた瞬間だった。
病名を知るということは、ことCS(化学物質過敏症)に関していえば、それはつらいことでも不幸なことでもない。病名がわからない方が、遥かにつらく、苦しい想いをするからだ。
『化学物質過敏症患者の「二重の不可視性」と環境的「社会排除」』 寺田良一(明治大学文学部心理社会学科・教授)という2016年の論文がある。(明治大学心理社会学研究 第12号2016)
このなかで寺田氏は、1200名のCS(化学物質過敏症)患者にアンケート調査を実施し、うち664名から回答を得ている。
「化学物質過敏症と診断されるまでに要した時間」を尋ねた質問には、
「受診をしてすぐに診断された」・・・28.2%
「1年以内」・・・17.7%
と一年以内の患者の合計が45,9%なのに対し、
「1年以上5年未満」・・・21.3%
「5年以上10年未満」・・・10.7%
「10年以上」・・・13.0%
と、一年以上かかった患者の合計は45%になり、約半数弱に上っていることがわかる。
また、「化学物質過敏症と診断されたときの気持ち」を尋ねた質問には、
「これまで自分に起きていたことが理解でき納得することができた」・・・69.1%
「これからの家庭や仕事での生活面に対して不安を覚えた」・・・57.6%
「治癒する見込みや治療方針の展望を持つことができず暗い気持ちになった」・・・47.8%
「今後の暮らしや治療方針を考えることができるので良かったと思った」・・・37.1%
という回答が出ている。(複数回答)
さらに、「別の病気と診断された経験」の質問に対しては、
自律神経失調・不定愁訴・・・40.1%
その他・・・29.3%
心因性障害(過度のストレス等)24.0%
更年期障害・・・17.6%
うつ病・躁うつ病・・・17.0%
不安障害・・・10.0%
パニック障害・・・8.0%(複数回答)
という結果が出ている。この結果を受けて寺田氏は、
「全体として、明らかに患者は何らかの身体症状を訴えているにもかかわらず、こうも心因性の病気に取り違えられるものかという印象がぬぐえない。」
と述べている。(同論文P66より)
2010年になっても、私の頃とほとんど何も変わっていないことに、溜め息が出る。なぜこんなにも、CS(化学物質過敏症)患者の置かれた状況は判で押したように変わらず、ただ繰り返されるだけなのだろう?
ある日に見た夕暮れの景色を、私は未だに覚えている。
まだ病名も何もわからずに、ただ自宅で療養していた頃のことだ。
例によって朝起きられず、午後の2時過ぎに目が覚めた。慌てて起きて朝食を食べ、外に出掛けた。
とにかく・・・図書館へ行こう。行って本を借りてこよう・・・
それだけのことでも、何か「意味」はあるのだと、必死に自分に言い聞かせていた。一日多少意味のあることをしなければ、自分が消えてしまいそうだった。その図書館で借りた本とて、結局最後まで読み通すことも出来ず、また返却することになるのだが。それもわかっていたのだけれど。
図書館に向って歩いて行くと、道の向こうに夕焼けが見えた。私が起きて、たった2時間で、日はもう沈みかけている。
何を、やっているんだろうなぁー・・・
ものすごく空虚だった。今の自分は、地上から2センチくらい浮いて、この道を歩いているんじゃないか。すべてに現実味がなく、何もかもが、そのまま溶けてなくなってゆくような・・・
それ以降も、大変なことはたくさんあった。
けれどあの頃が、一番つらかったような気がする。
(このページは昨年1月~3月にブログで公開した物語を1つにまとめたものです)