北里病院へ、行った話<奇妙な診察編>

引き続き、診察中。

ようやくやっと、私が「化学物質過敏症」であるという診断が出た。またその検査による結果も、医師の先生に大変詳しくして頂いた。これだけで診察時間はすでに、15分以上は経っていたかと思う。大変に丁寧な診察だといえる。普通の病院ではたいてい「3分間診察」だといわれるから、その差は歴然。

しかしまだ、肝心な話が出ていなかった。そう、「治療」の話である。この化学物質過敏症という病気は、どのようにすれば治るのか。回復するのか。これ以上悪化させないためには、何をどうすれば良いのか?

このことを、専門の医師の先生に尋ね、直接教えてもらいたい。それが私のこの受診の一番の目的であり、また希望だった。

それで先生、今後はどのようにすれば…

出来る限り、反応物から遠ざかって、距離を置いて下さい。生活環境もなるべく、化学物質の曝露が避けられるよう、整えて下さい

あ、はい…

沈黙
え、それだけっ!?

あの具体的には、どのようにすれば…

そうですね。御自宅の、特にあなたが一番長く過ごす部屋を、重点的に環境整備するのが良いですね

え、えーと、じゃあ例えば、部屋に置いてある本を減らすとか、そういうことですか?

本が沢山置いてあるなら、そうですね。減らすに越したことはないです



あ、あとじゃあ、タンスとか本棚とかの合板家具なども、どけた方がいいのですか?

 

合板製の家具というのは、ラワンなどの材木を「桂剥き(かつらむき)」のように薄くして、それを何重にも接着剤で貼り合わせて出来ている。軽くて加工しやすく、また安価で作れることで市場に出たが、その大量に使用される接着剤に問題がある。

2000年当時は、合板家具の接着剤に含まれているホルムアルデヒドが大きな問題だった。ホルムアルデヒドは、加水分解しやすく、湿気があるとすぐに分解して揮発し、家具の外へ出てきてしまう。壁紙やビニールクロス等を貼るのにも、接着剤は大量に使用されるので、シックハウスで発症する一番の原因物質もこのホルムアルデヒドだった。〔注:現在は、規制により家具のホルムアルデヒド含量は減少したといわれる。しかしその代替品として、成分をわずか変えただけの接着剤が多用されるようになった。そちらは規制対象外なので、基本野放しの状態である。業界と規制は“いたちごっこ”であり、危険な家具自体は決して減ってはいない。(参考 「空気に漂う危険な物質」 柳沢幸雄 『月刊保団連』 2022/3月号 特集「香料にひそむ健康リスク(化学物質による不調を見極めるために)」より)


また、必ずしもシックハウスがもとで発症した患者でなくとも、過敏症状が進行すると次第に合板家具にも反応を起こすようになると、私は読んだり聞いたりして知っていた。どれほど長年愛用した家具でも、反応が出ると使えなくなり、破棄せざるを得ない、と。

私はまだ反応してないけど…でも早いうちに遠ざけてしまった方が、いいんだろうか…?

そうすれば、これ以上悪化するのを防げるのかもしれない。そう私は考えたのだ。

そうですね、他の部屋に移動するのが可能ならば。でもなかなか、スペース的にそう余裕のあるお宅は、少ないでしょうね

…そうだ。その通りだった。「合板家具を撤去する!」なんて口で言うのはたやすいが、実行するとなるとトンデもなく困難なことになる。

それはちょっと、今自分がいる部屋を思い浮かべてみるだけでも、すぐに思い知る。

私は8畳ほどの部屋の、そのど真ん中に布団を敷いて寝ていたのだったが、たとえば寝ながらちょっと、顔を右に向けてみると、

目と鼻の先に、洋タンスどーん、その隣に和ダンスどーん、さらにその奥に引き出し付きの本棚(でかい)どどーんっ。

そうして左を向いてみれば、

中サイズの本棚どーん、カラーボックスが2つどーん、引き出し付家具がどどーんっ。

これら全部が、合板家具だった。合板家具じゃない家具なんて、ほとんどなかった。唯一あるのは、窓際にある和机ぐらい。いやいやどーするのよ!?この合板家具の数々ッ!

寝ながら見上げていると、何やらタンスが高層ビルのように見えてくる。本棚もそうだ。ぬぉぉぉと、そびえ立っているではないか。ここはどこ?日本なの?合板家具のニューヨーク、ウォールストリート街じゃないの?っていうか私、完全に囲まれてるじゃないの…!

この大量の合板家具を、他のどの部屋に移せるというのか。他の部屋だって同じくらい、本棚やらタンスやらが置いてあるのだ。無理。っていうか不可能。先生の言われる通り、どこにも空きスペースなんてない。

沈黙


 

それとあと、食事をですね、なるべく無農薬無添加のものにしようと思って、で少しずつやっているんですが…

あ、それは大変効果があると思いますね。ぜひ続けられるといいです

あと、汗を出すのがいいと聞いたので、半身浴とかサウナに行ったりとか…

それも大変良いです。続けて下さい。軽い運動もいいですよ

えーと、私は今体力がなくて、仕事もしていないんですが、やっぱりアルバイト位はした方がいいでしょうか?

出来そうなら、そうですね。でも疲れてしまうバイトは、やめておいた方がいいですね

アトピーの患部には薬を塗った方がいいと親は言うんですが、塗った方がいいんでしょうか?

いえ、塗らないでいられるなら、塗らない方がいいです

 

矢継ぎ早に私は、次々と先生に質問をしてゆく。質問すれば先生は、その一つ一つに明快に答えて下さる。

しかし先生の口から、「こうすれば良くなります」「こうすれば回復します」というような話は、一つも出てこない。治療法や、少なくとも治療につながるー回復するー手がかりを何とかして得たい私は、懸命に粘るのだが、矢を放っても放っても先生からは、ついに何も出てこなかった。どころか逆に、気が付けば患者の私の方が具体策をバンバンと挙げ、先生はそれについての良し悪しを評価するという、何とも奇妙な、不思議な診察になっていた。

これは…ナニ?どうしてこうなるの?検査説明のときは先生、あんなに具体的かつ精緻に話をしてくれてたのに?こと治療に関してはなんでこんなに曖昧模糊、ぼやああんとした話になっちゃうんですか…!?


過敏症状を、少くともこれ以上悪化させたくないんですが…症状を進ませないためには、何をどうすればいいんでしょうか?

かなり思い切って、そう訊いてみた。そう、完全に治ることは無理としても、少くとも現状維持―反応するのは排気ガスや農薬ぐらいで―何とか抑えたい。反応物質をこれ以上増やしたくない。そのための具体的な方策が、知りたい。知りたいのだ。

とにかく、身の廻りの環境整備です。化学物質の曝露を極力減らすこと、それが何より大切です。特に家の中です。自分が一番長く過ごす部屋の環境を、整えて下さい。

沈黙

いや先生、それはわかります。その通りだということもわかってます。「生活環境から、一つでも化学物質を減らしてゆくこと」。化学物質過敏症(CS)ネットワークのホームページにも、何度となくそれは書いてありましたから。

でも先生、それだけなんですか? も少し何か、ないんですか?「環境整備」、そんな一般セオリーみたいなものじゃなくて、もうちょっとこう、「医学的に有効な手立て」とか治療手段は、ないんですか…?

だって先生、「環境整備」といわれても、自分の部屋に置いてある合板家具一つ、撤去できないんですよ。そうして一歩外へ出れば、車の排気ガスがあり、消毒剤があり、スーパーや病院や役所の床には床ワックスが塗られ、電車やバスの車内には殺虫剤が噴霧されている。道行く人たちの衣類や髪はすべて、合成洗剤で洗われている。社会全体、いや世界全体の、その隅々に至るまで、化学物質は行き渡り、充満している。満たされている。私たちは首まで、いや頭のてっぺんまで、化学物質に浸かっているではないですか。

これをどうやって、避ければいいんですか?避けてどうやって、暮らしてゆけるんですか?


こんなにも化学物質に満たされ、溢れ返っている世界の中で、その一つ一つに反応してしまうというこんな身体になってしまった私は、この先いったい、どうやって生きていったら、いいんですか…?

そんな想いが、頭と胸の中でぐるぐる駆け巡っていた。しかしそれは、一言も先生には言えないまま、この日の診察は終了した。

また着替えて、クリーンルームの外に出る。疲れ果てていた。「受診すれば何とかなる」、とどこかで期待していたぶん、落胆も大きかった。

しかし医師の先生とて、別に意地悪をして何も言わなかったわけではない。そのことはさすがに、私もわかっていた。

本当に、それ以外ないのだ。化学物質過敏症の〝治療〟というのは、結局のところ患者本人が、自分で自分の身の廻りの「環境整備」をするしかない。反応するものを極力遠ざけ、避けて生活するより他ない。その〝ケミカルフリー〟な生活を、ずっと続けてゆくことが、最大の治療法なのである。

逃げるしか、ないのか…

私の場合は。

重苦しい現実が、一気に身体にのしかかってきた。そんな気がした。診察代を支払う会計ロビーの人のごった返しが、何だか遠い世界の光景に見えた。この世界からどんどん、引き離されてゆく自分。でも、なら私は、いったい何処へ行けばいいんだろう… それでも、もう一回望みをかけ、2回目の診察予約はする。次の診察は、約1ヶ月後になった。


とにかく、部屋の片付けをしよう…。

北里病院受診後、わりとすぐに、私は自室の「環境整備」に取りかかった。合板家具の類は動かせないものの、その中に入っている余計なもの要らないものは、取り出して廃棄処分。これまで溜め込んでいたマンガ雑誌なんかも、全部捨てる。多少惜しいものもあるっちゃあるけど、そんなこと言ってたら何も進まない。えいっ、えいっとゴミ袋へ。

早く、早くしないと…。化学物質を早く減らして、身体の負担を軽くして、これ以上悪化しないようにしないと…

焦っていた。これはまるで、シーソーゲームみたいだな、と思った。身体に入ってくる化学物質の量と、今私が何とか耐えられる量との。

入ってくる化学物質の量が私の限界を超えれば、また坂道を転がり落ちるように悪化してゆくだろう。悪化すればさらに過敏が進み、反応物も増えてゆき、とさらにそれに反応することでますます過敏化が進むという悪循環に陥る。

それを回避するために、今こうして身の廻りの化学物質を減らしているわけだが、しかし問題は、その限界値がどれくらいなのか、自分でもさっぱりわからない、というところにあった。そこが、恐い。

時間の問題かも…。

そう長くは保たない。それは身体の感じで、何となくわかっていた。部屋の片付け程度では、そう時間は稼げないだろうな、と。というのもアレが、目の前にあるものだから。

あ、あああー…アレが、なぁ…

台所脇のベランダ窓から、今日もよく見えるアレ。地面から生え、空にそびえ立っているかのようなアレ。そもそも家の窓から、こんな間近に見えること自体どうにも違和感ハンパないアレ。今日もアレは、そのてっぺんから白い煙を左にたなびかせている。何度何回見ても、ギクッとし、これでいいのか大丈夫なのかやっぱり間違っているんじゃないかと思い、頭がぐるぐるしてきてしまう。


ゴミ処理場の、煙突。

家と、目と鼻の先くらいの距離に、ゴミの焼却施設があるのである。その煙突が、どーんと。まるで不吉なバベルの塔みたいなその姿が、4階のうちの窓からまあ、よく見えるんである。う、うううー…

見るたびに、思った。アレに、毎日毎日ゴミを焼却してはその突端から白い煙をモクモクと出しているあの煙突に、部屋の「環境整備」ごときで本当に、対抗出来るんだろうか…と。

だって窓を開ければ、いや窓を開けなくったって、私はあの空気をつねに吸っている。何百何千になるのかは知らないが、ダイオキシンやら何やら、ゴミの焼却で生じる膨大な化学物質の混じっている、あの空気を。ここに住んでいる限り、あの空気から私は逃れられない。吸わないわけにはいかない。だって「空気」だから。そのここの空気全体が、アレなのだから。

これってもうさ…何というの?砂漠のド真ん中で砂をかき出してる、みたいな?焼け石に水っていうか?いやもう全然、太刀打ちなんて出来てないんじゃ…

ちまちまと物を捨てている自分の行為自体が、そんなふうに思えてくる。シーソーゲーム、なんて言ったが、実際はシーソーなんて成立していないのかも。入ってくる方が、圧倒的に多いんじゃないか。あぁ何だか背中に、冷たいものが流れてゆく…


しかも。

しかもである。もとからこういう、ゴミ焼却施設が隣接する家に暮らしていて、で化学物質過敏症を発症したのではないのだ。化学物質過敏症を発症して、その後に引っ越した先が、ここなのだ。つまりゴミ焼却施設が、家と目と鼻の先のとこにあると、はっきりとわかっていて越して来たのである。

いやアホじゃねーの? と思われるだろうが、ハイ、実際アホでした。後から考えれば、いったい何を血迷ってそんなトコに…って話なのだが、しかし当時は若干、やむを得ない事情、理由がないではなかった。

この2000年当時、私の父はすでに70代になっていたのだが、まだ現役で働いていた。その父の通勤可能圏内の家が、ここしかなかったのだ。自家用車での通勤だったが、それでも前の家よりは40分以上余計にかかることになる。かろうじてギリギリ、という感じだった。

そしてもう一つの理由は、たしかにここにはゴミ焼却施設があったが、車の排気ガスは少かった、というところにある。

そもそもなぜ、その前に住んでいた横浜のニュータウン団地から、一家挙げて大々的に引っ越さねばならなかったのかというと。私が、化学物質過敏症を発症してその2ヶ月後に、今度は家の周辺の車の排気ガス空気にどうにもこうにも耐えられなくなり、でまたもや、家から逃げ出したから、なのだった。車の排気ガスで、その家にはもはや、私は住んでいられなくなってしまったのだ。

もともとは、その横浜のニュータウン団地周辺は、田舎ァ~でのどかぁ~な、緑の多い大変にいい環境のところだった。世田谷のアパートからほうほうの呈でこの実家に帰って来たときは、「おぉ何て空気が良い・・・!!」と感動したものだった。実際それでメキメキと身体も回復していったことは、以前書いた通り。


しかしその後5、6年で、環境が様変わりする。開発が進み、近くを走る道路はいつの間にか道幅を拡張し、昼夜車がバンバン走るようになった。新しい地下鉄の路線がズバーンと開通したかと思ったら、新しい駅までドーンと出来、さらにその駅前にシネコンやら有名デパートやら高級スーパーがドカーンドカーンと建った。新しいマンションはタケノコのようにどんどん建設された。

人が増えれば、当然車も増え、となれば周辺空気の排気ガス濃度も、じわじわと上昇してゆく。世田谷でまず車の排気ガスに感作していた私は、次第にそれに適応することが出来なくなってゆき、そしてある日遂に、針が振り切れたのだった。

ヤバい・・・んじゃないかコレ?

疲れて疲れて、一日の大半を寝て過ごすようになっていた。寝ても寝ても、体力は戻らないばかりか、何かに吸い取られてゆくように失くなってゆく。

このままだと私・・・ここで寝たきりになるんじゃ…?

「消耗」「衰弱」という言葉がしきりに頭に浮かんでくる。そして目の裏に一瞬、寝たきりとなった私を介護している母の姿が、はっと見えた。なぜか本当に、物凄くリアルな画像として、ありありと見えたのだった。

ヤバい…ヤバいヤバいヤバい…ここにいたら遠からず、私はああなる…!

それで翌日、ありったけの体力を総動員して、甲信越地方に父がバブル期に建てた別荘に、一人逃げたのだった。住んでいた家から「逃げる」のは、世田谷アパートに次いで2回目である。やれやれ…

とまあそんな過程であったので、次の引っ越し先の最重要条件は「車の排気ガスの少ないところ」となるのも無理はなかった。と、たしかにここは、車の排気ガスに関しては条件が良かったのである。大きな車道も近くにはなく、また団地全体が丘の上にあり、どこからもやや離れている。この先開発が進みそうな気配もまあない。

本当に…アレさえなければ…なあ。

それでも車の排気ガスは少いのだから、この際アレには目をつぶろう。方々家を探して廻った父と母も、そして私も、そう思ったのだった。気にしない気にしない。あの不吉なバベルの塔みたいな煙突の姿も、目に入ったとしても見ない見えない。スルーよスルー、意識の外へ出してしまえー。

そう思っていた。思おうと努めた。

ところが。

ところがである。

実はとんでもないことが、アレに持ち上がっていたのである。


なぜその日に限って、ポストに入っていたその一枚のチラシを私は読んだのか。今もってよくわからない。

北里病院を受診する半年ほど前、横浜からM市にあるこの家に引っ越してきて、まだ間もない頃だった。

ポストに入っているそんなチラシは、普段ならば目も通さず、広告類とまとめて捨ててしまうはずだった。なのになぜか、ふと読んだ。

ピンク色をした、ザラ紙のチラシ。まるで昔のガリ版刷りのような、荒い印刷だった。そこにはこう書かれていた。

『〇△清掃局に排プラスチック圧縮処理施設建設の計画!! M市は今年度予算に計上
 ☆〇団地に「杉並病」発生の恐れ 団地住民で断固反対の声を上げましょう!!』

見た途端、文字通り凍り付いた。衝撃で頭が真っ白になり、何も考えられなくなった。

〇△清掃局とは、うちと目と鼻の先にあるあのごみ焼却施設のことだ。そこに排プラスチック圧縮処理施設をつくる? すでに予算も計上? ナンダ? コレハ??

慌てて私は、4階の我家までの階段を駆け上り始めた。足ががくがくしているのか、階段の一段一段を踏んでいる感覚がない。何だかふわふわしていた。

杉並病、杉並病…

「杉並病」という文字だけが、ぐるぐると頭の中を行き来している。

大変なことに、なった…


「杉並病」、ときいても今の人は、知らない人が大半だろう。もう25年以上前のことになるから、当事者以外の人はすでに忘れてしまったのではないか。実際、社会的世間的にもこの「杉並病」のことは、何か強力な魔法でもかけられたかのように、きれいさっぱり忘れ去られている。そんな気がしてならない。

しかし、そんな簡単に忘れてしまっていいのだろうか? と、私などは思う。この「杉並病」には、ごみの問題、特にプラスチックごみの問題、なかでもそのプラスチック由来の化学物質による健康被害の問題、が凝縮されて詰まっている。今日的な問題を数多く含み、それは決して過去に葬り去ってしまっていいことではない。忘れてしまえば、また同じことが繰り返されかねないからだ。

また、さらにつけ加えるならば。

この「杉並病」問題には、水俣病から連綿と続く、「公害」における被害者側と国側の、その対立の構造がよく見える。被害を訴える患者と、その責任を決して認めようとしない国側、という、決して変わらない構造がここでもまた、縮図のように浮かび上がってくるのだ。

ことのあらまし、経過はこうである。

1996年4月、東京都杉並区にある井草森公園の地下で、ある施設がひっそりと稼働を始めた。

不燃ゴミ圧縮施設杉並中継所 by Angriff (licensed under CC Ver3.0 BY&SA)

その施設は、家庭から出たプラスチックのごみを、搬入して地下で圧縮して潰し、コンパクトにしてまた別の施設に運び出す、というものだった。排プラスチック圧縮処理施設である。

燃やすのではなく、あくまでも圧縮して潰すだけの施設だ。これは中間処理にあたり、なのでこの施設のことも「杉並中継所」と呼ばれた。建設したのは東京都で、その管轄も当初は都の清掃局だった。(後に都から杉並区へ移管する)

「焼却ではないから、まったく何も出ないわけではないが、特に換気塔からは問題になるような汚染は出ないと考えている」

建設前の住民説明会で、東京都清掃局側はそう説明していた。


しかし、4月に本格操業を開始すると、その直後から被害が出てくる。

井草森公園で遊んで帰って来た子どもが、帰宅30分後に急にまぶたが腫れ上がり、咳、鼻水、目やになどの症状がかなり長期間続いた。

スーパーに行くため、公園沿いの道を歩いていた女性は、突然喉に強い刺激空気を感じ、気持ち悪くなり、しゃがみ込んでその場で嘔吐。慌ててまた来た道を引き返した。

公園の南門近くでタクシーを下りた女性は、急に口中に苦い空気を感じ、ついで頭と胸に何ともいいようのない、「衝撃的苦悶」を感じた。そしてその翌日から、声が出ない、喉の腫れ、嚥下痛、口の中が腫れて痛い、止まらない咳、頭の朦朧感、ふらつき、血圧急上昇、歩行困難、等に陥った。

中継所が稼働を開始して、1ヶ月が過ぎた5月に入ると、中継所に近い住民から口々に、「喉が痛い、口中が痛い」「咳が止まらない」「全身がだるい」「風邪のような症状がずっと続いて治らない」という声が多く上がってくる。近隣の病院では患者が急増し、薬局では「喉のトローチ剤がよく売れます」といった状況に。

共通しているのは、「空気への違和感」だった。多くの住民が「空気の異常さ」を感じていた。そしてそれがより強く感じられるのは、井草森公園と公園周辺の道路、というのもまた多くの声で一致していた。


「空気を調べて。大変なことになる」

津谷裕子(つやゆうこ)もまた、この「空気の異常さ」にいち早く気付いた一人だった。

参考:空気汚染の健康被害を知ってほしい
市民科学者故 津谷裕子さんの著書を公開(NEWSつくば)

杉並中継所稼働直後の4月。井草森公園の南門近くで津谷は、突然口中が苦い空気で満たされていることに気付いた。ついで激しい動悸と息苦しさに襲われ、ほとんど駆け込むようにして自宅へ逃げ込む。強烈な空気だった。全身に、何とも「表現しようのない衝撃的苦しさ」を感じていた。身体も手もがくがくと絶え間なく震えている。その震える手で、杉並区役所の公園課と環境課に電話し、「空気を調べて」と通報したのだった。津谷の自宅は、杉並中継所の真南にあり、距離はわずか150メートルしか離れていなかった。

津谷裕子は、応用物理学の専門家として、長年働いてきた。仕事柄、実験で数多くの化学物質-無機ガスやトリクロロエチレン等-を扱い、その曝露も受け続けてきた。だからたいていの化学物質には、“身に覚え”がある。

しかしこの日経験した空気は、過去のどれとも違う、とてつもない”何か”だった。ケタ外れの、おそろしく危険で有害なものが、空気中に漂っている。一瞬で津谷は、そう確信した。

翌朝から体調は、酷い状態になった。

口中の腫れ、喉の痛み、止まらない咳。血圧は190にはね上った。這うようにして病院へ行き、

「公園で、とんでもない空気汚染に遭った」

と医師に言うが、まともに取り合ってもらえず、血圧降下剤を処方されたのみ。

5月に入ると、体調はさらに悪化する。

咳は、胸の奥から吐き出すような激しいものに変わった。特に夜がひどく、一晩中苦しめられる。頭は霧がかかったようにぼうっとし、集中して物が考えられない。顔の筋肉も張り付いたように硬直し、頰がにこりとも動かせなくなった。手足からは力が抜け、料理をしていても頻繁に鍋や食器を取り落とす。そのせいで何度かひどい火傷をした。歩こうとすれば地面がゆらゆらと揺れ、外出先から戻れなくなり、電柱に抱き付いてタクシーを呼ぶこともしばしば。なぜか足が一歩も前に出せなくなり、道の真ん中で立ち往生することも幾度もあった。身体が、日を追うごとにどんどん、おかしくなってゆく。


また奇妙なのは、その「異常な空気」、汚染空気の存在が、だんだん手に取るようにわかる、感じられるようになってきたことだった。

たとえば、強い南風が吹くと、その汚染空気が自宅の内まで、どんどん侵入してくるのがわかる。感じられる。すると咳や喉の痛みが、それに呼応するように強くなる。
逆に、病院へ行くためバスに乗り、井草地区から遠ざかると、咳も喉の痛みも引いてゆく。

まるで空気が、見えるかのようだった。日によって時間によって、刻々と変わる空気の状況。その空気の中に混じる未知の何か、ひどく凶悪な汚染物質の存在が、はっきりと手に取るようにわかる。そしてそれが空気中に増えてくると、判で押したように症状が酷くなるのだ。

それは、津谷裕子ばかりではなかった。星谷昇子もまた、まるで同じ状態になっていた。

星谷昇子の住むマンションは、杉並中継所から約100メートルのところに建っていた。3階のその星谷の部屋は、中継所にある高さ13メートルの黒い排気塔とほぼ同じ高さで、排気口はベランダの窓から、わずかに見下ろすくらいのところにあった。星谷は、雨の日以外は朝も夜も、窓を開け放って生活していた。

杉並中継所稼働直後から、やはり不可解な症状が相次ぐようになる。

顔の小鼻の周囲に、膿を持った腫れ物が出来てなかなか治らない。喉がおかしく、食べ物が上手く飲み込めなくなり、詰まらせてあわや窒息しかけたこともあった。


6月に入ると、突然顔中真っ赤に腫れ上がり、大慌てした。が、外出して井草地区を離れると、帰る頃には腫れはきれいに引いていた。しかし自室へ戻ると、また腫れは再燃する。

「空気が、おかしい」。そんな噂を聞き、星谷は慌てて開け放っていた窓を閉めた。
すると今度は、窓やあちこちの隙間から、汚染空気がじわじわと家の中に侵入してくるのが、わかった。それはもやのような感じのもので、そのもやが身体にじっとりと巻き付いてくるのが感じられる。すると途端に肩や胃がけいれんを起こして小刻みに震え始め、呼吸も苦しくなった。また一種の焦燥感に襲われ、居ても立ってもいられなくなり、部屋中を「熊のように」ウロウロと歩き廻ってしまう。

©SORAIRO

何なのこれ…頭がどうかなってしまったんじゃ…

もや状の空気、身体に巻き付いてくるそれ。そして巻き付かれると途端におかしくなる自分…。まるでホラー映画か何かの世界に、入り込んでしまったかのようだった。


多くの住民が、杉並中継所から流れてくる「異常な空気」、汚染空気の存在を感じていた。そしてこの汚染空気の状況、その濃度によって、症状が出たり引いたり、激しくなったりやや軽くなったりすることにも、はっきりと気付いていた。

平成11年(1999年)の8月に実施された、健康被害調査アンケートがある。市民が自発的に行ったアンケート調査で、対象は杉並区民と練馬区民。85項目からなる症状リストの中から、該当する症状を挙げてもらう、という形式のものだ。

症状リスト項目の中の、「外泊など外出が長いと体調が良くなった」にマルを付けた人は、全解答者数340人中106人。約3分の1に上った。(『新しく始まった揮発性有機化合物汚染の実態-不適切なプラスチックごみ施設杉並中継所(杉並病)問題をふまえて-』 化学物質による大気汚染を考える会編 2007年8月発行 創英社 P10~67より)

「今度具合が悪くなったら、病院に行くより旅行をすれば治るかも」「右手が痛くて動かせなくなっていたのに、京都に一泊したら、帰りの新幹線の中で何ともなくなっていたのに気が付いた」「4月に沖縄へ旅行に行ったら、じんま疹の薬を持ってゆくのを忘れていたのに、結局一度もじんま疹は出なかった」
そんな声が、あちこちから聞かれた。


症状が、汚染空気の有無によって、出現したり消失したりする。

それはつまり、身体が汚染空気に感作している、ということを意味していた。

「感作(かんさ)」とは、症状を引き起こす原因物質に、反応するようになることをいう。そしてその物質に接触するたびに、反応し、症状が繰り返し再燃して出てくるようになる。

卵アレルギーやスギ花粉アレルギーと、作用としては同じだ。卵を食べれば、あるいはスギ花粉を吸い込めば、反応し、症状が出てくる。卵を食べなければ、スギ花粉を吸い込まなければ、反応は起きず、したがって症状も出てこない。生理現象としては同じだ。卵やスギ花粉という「感作物質」が、杉並中継所からの汚染空気に成り代わっただけである。

つまり、「化学物質」もまた、さまざまな症状を引き起こす「感作物質」となり得るわけである。


津谷裕子と星谷昇子はともに、稼働2か月後の6月に、重篤な状態に陥る。津谷は自宅で意識消失しかけ、星谷は呼吸困難になり、病院に救急搬走され入院となった。そして退院後は、自宅へは結局戻らないまま、転居する。井草の自宅に戻れば、入院でやや治まっていた症状も一気に再燃することが目に見えており、だから戻りたくとも戻れなかった。津谷はK市へ、星谷は郷里である和歌山県へ。

杉並中継所からの汚染空気からは、やっとようやく逃れることが出来た。こわばって石のように硬直していた身体は、徐々にほどけ、少しずつ回復していった。

が、しかし「反応性」は、依然として残る。

©SORAIRO

杉並井草から持って来たものに、身体はことごとく反応した。衣類はもちろんのこと、寝具、家具、電化製品、書籍、書類や手紙の一枚に至るまで、すべて駄目だった。持ち込むと津谷はたちまち強い目まいと息苦しさに襲われ、星谷は背中が締め付けられるように痛み、顔や目や舌がヒリヒリとした。我慢しているとたちまち呼吸困難に陥り、倒れてしまう。またそのような激しい反応を起こした後は、きまってその後数日間寝込むことになった。凄まじい反応だった。

反応するのは、杉並から持ち出したものに限らなかった。

転居したK市の家の近くで、新築の家に建設が始まると、津谷はやはり激しい反応に襲われた。特に、プラスチック系の接着剤や断熱材、ウレタンフォームなどにより強い反応を示す。だから衣類などでも、ウレタン等化学繊維仕様のものは、一切着られなくなった。


郷里和歌山に戻った星谷も、安全な暮らしとは程遠い日々だった。近所で頻繁に燃やされる家庭ごみや野焼きの煙、排水より立ち上ってくる合成洗剤のにおい、車の排気ガス…どこへ逃げても何かが追いかけてきて、身体は反応した。激しい症状が出て、そのたびに倒れて寝込むことになる。繰る日も繰る日も、その繰り返し。

『目の奥を熱い錐で突き刺されるような激痛、脳みそがチリチリ音を立てます。意識を失くすことも多々ありました。針のような熱い空気が頭皮を突き刺します。針ネズミのような棘のある空気が喉の奥から食道を通ります。動けなくなります。明日は目が覚めないだろうと思いながら布団に入ります。でも目が覚めます。また地獄の一日が始まります』(前掲書「被害住民の最近の手記」P207より)

津谷裕子も星谷昇子も、わずか2ヶ月の間、杉並中継所からの汚染空気に濃厚に曝露し続けたことにより、身体が「感作性」を獲得、以後化学物質全般に反応するようになってしまったのだった。

この状態はつまり、「化学物質過敏症」そのものだった。実際に2人とも、北里病院の富田幹夫医師の診察により、化学物質過敏症との診断を受けている。〔※当時「化学物質過敏症」は病名登録以前だったので、「中枢神経機能障害、自律神経機能障害」となった〕

この2人ような被害住民が、その背後に数百人近くいた。杉並中継所の稼働は、その周辺に住む住民たち広範囲に、甚大な健康被害を与え、なおかつ「化学物質過敏症」という完治の難しい、半ば不可逆的な病を、引き起こしたのである。


しかし実際のところ、杉並中継所からは何が出ているのだろう?これほど広範囲に健康被害をもたらした、あの汚染空気のなかには、いったい何が含まれているのだろうか?

杉並中継所に持ち込まれるプラスチックごみは、焼却されているわけではなかった。地下施設でプレスされ、圧縮しコンパクトにして、また運び出される。つまり押し潰しているだけなのだ。それなのになぜ、あの汚染空気は発生したのか。

津谷裕子は、その原因究明に乗り出すことを決意する。これは、応用物理学の研究者として、また一化学者として生きてきた自分の、使命だと思った。『このような事態が放置されるなら、杉並はおろか、日本に人は住めなくなってしまう』、そんな強い危機感があった。

黒田チカ
朝日新聞社 アサヒグラフ(1948.7.2号)

ある人の言葉が、津谷の脳裏に鮮やかに蘇ってきた。/それは、日本で初めて女性で帝国大学に入学し、科学者となった、黒田チカ(1884~1968)の言葉だった。戦後間もない、まだ津谷が16、17歳だった頃、その黒田の講演会を聞きに行ったことがある。壇上の彼女は、熱を帯びた力のある声で、津谷ら聴衆の女子学生たち向い、こう言った。

「敗戦となり、戦争に負けた日本には、これからアメリカの圧力により/さまざまな化学物質が入ってくるでしょう。これまで日本人が、使ったこともなければ体験したこともない、化学物質です。

日本人の生活と、生命は、これより先危機的な状況に置かれます。

皆さんにお願いしたいのは、化学の勉強をして下さい、ということです。そして基礎的な化学物質の知識を身に付けて下さい。それが、皆さんの生活と、生命を、守る盾となります」

そんな黒田の言葉が、50年以上の時を経て、津谷のなかで蘇っていた。何か運命的なものを感じた。

応用物理学の専門家であるとはいえ、化学は専門外だった津谷は、急いで書店へ行き、高校の『化学』の教科書を何冊も買い込んだ。そして一から化学の勉強を始めた。

何としても、一日でも早く、杉並中継所を止めなければ・・・!

思うのは、ただそのことだけだった。


杉並中継所が稼働して2年後の、1998年5月。津谷は某所で、ある一つのデータ解析に臨む。

それは、1997年1月30日に、東京都清掃局(杉並中継所を管轄している)が中継所/の南約200メートル地点で観測をした、その空気データだった。津谷は、その生データを請求して入手し、ある研究機関に頼み込んで、自動検索プログラムにかけ読み取らせたのだ。

必ず、出る・・・!

400種を越える化学物質が、次々と出てきた。これまで東京都清掃側が、一切発表してこなかった-つまり隠蔽/してきた-化学物質の数々。シアン化合物、アルデヒド類、水銀蒸気、プラスチックの可朔剤であるフタル酸類。なかでも津谷の目を強く引いたのは

化学物質(イメージ)
©kengssr1980(123RF Free Images)

「トルエンジイソシアネート」

という物質だった。

トルエンジイソシアネート、この「イソシアネート類」は、極めて高い毒性を持つ物質だ。

労働省が定めた、化学物質の「室内濃度指針置」というのがある。人が、一生健康で暮らしてゆける(であろう)室内の許容化学物質濃度を定めたものだ。

たとえばトルエンは、それによると0.07ppmとなる。

一方このトルエンジイソシアネートを指針値にあてはめてみると、

0.000007 となる。

つまりトルエンジイソシアネートは、トルエンに比べ、1万倍少なくなくてはならない。

それだけ毒性が高いのである。


ゆえに人体への影響も、相当に強い。わずかに吸引しただけでも、呼吸器系に障害が出る。気管支炎、喘息、より重症化すると肺が繊維化する肺繊維症や、肺の壁の細胞が炎症を起こす間質性肺炎になる。

激しい喘息発作を起こし、一晩で亡くなることも決して珍しくないという。実際インドでは、米国の農薬会社の工場から「メチルイソシアネート」が漏れ出し、一夜にして2000人以上が死亡し、その後数ヶ月でさらに1500人以上が死亡、15万から30万人が後遺症等に苦しむ、という大惨事が起きている。

1984年 インド·ボパール事件である。

事故後のボパール化学工場(2010年撮影)/ ©Julian Nyča (CC BY-SA 3.0)

この大事件をきっかけに、国際社会はイソシアネート類の規制に乗り出すことになった。が、日本では未だほとんど規制らしい規制は行われていない。


さらにもう一つ、このイソシアネート類に特有の、大きな特徴があった。

このイソシアネート自体が、強力な「アレルギー物質」である、という点だ。

つまり、イソシアネートを吸引したり接触したりして曝露すると、身体が「感作」され、イソシアネートに特異的に反応するようになる、ということだ。それにより、各症状が出てくる。イソシアネートアレルギー体質に、身体が変わってしまうのである。

やや専問的になるが、そのプロセスは次のようになっているらしい。
イソシアネートが身体の内に入ってくると、血液成分の一部と結合して、抱合体というものが形成される。この抱合体はいわば、イソシアネートと我々ヒトの組織との、ドッキング物質だ。

この抱合体にどうも、免疫細胞が反応し始めるのである。免疫はそもそも、細菌とかバクテリアとかの異種生物、異種タンパクに反応するよう出来ているのだが、ヒトの一部がこの化学物質にくっ付いているからなのか、俄然活性化してこの抱合体を、

「敵!!」
「攻撃して排除すべし!!」

と認識してしまう。そして免疫B細胞をけしかけて、抗体をつくらせる。抗体とは、免疫細胞が「敵」に対してオーダーメイドでつくる飛び道具、武器のようなものだ。その「敵」にだけ、特異的に反応するようつくられている。TDIIge、トルエンジイソシアネートIge抗体である。

一度この抗体が出来上がってしまうと、その「敵」が入ってくるたびに免疫は功撃するようになる。抗体というもの自体が、一つの記憶だからだ。そしてその記憶が完全にリセットすることは、ほぼないといっていい。花粉症の人が、完全に花粉に反応しなくなることはないのと同様に。反応させないためには、その敵がいないところへ、逃げるしかない。


イソシアネート類がアレルギーを起こさせるところは、ほぼ全身に及ぶといっていい。目や鼻の粘膜、皮膚、気管支といった外界と接するところから、肺、心臓、脳の中枢神経、血管といったより身体の内部まで。血管がアレルギー反応により、けいれんや収縮を起こしてしまい、それが心臓発作につながることもあるという。

津谷や星谷たちの症状を、今一度思い出してみよう。

喉の痛み、激しい咳、動悸、震え、顔の皮膚が真っ赤に腫れ上がる、歩行困難、頭がぼうっとなる、強い焦燥感に駆られる・・・

これら一見、バラバラに散発して起きているかに見える症状も、中心にトルエンジイソシアネートを据えれば、きれいにまとまるのである。 一貫しているといっていい。津谷と星谷が、杉並区井草の地を離れてもなお、イソシアネート類をはじめ各種化学物質に激しく反応し、ひどく苦しめられることとなったその理由も。

イソシアネート類が、原因だったのだ。少くとも原因の大部分を、この化学物質が担 っていた。「杉並病」で化学物質過敏症患者が多く出たのは、ある意味当然の結果だったともいえる。

やっぱり…

データ解析のグラフを見つめながら、津谷は思った。驚きはなかった。予想していた通りだった。というのも、海外文献を片っ端から調べていた過程で、イソシアネート類の存在が濃厚に浮かび上がっていたからだ。出るべくして出た、いや出ない方がおかしい、物質だった。


その発生メカニズムも、津谷はすでにわかっていた。

イソシアネート類は、プラスチックから出てくる。プラスチックの、ウレタン系のものから発生するのだ。ウレタンが、何かしらの衝撃とかこすれにあい、そこに熱や水分が加わったりして化学構造に変化が生じると、かなり簡単に発生する。

杉並中継所の場合は、こうだった。

運び込まれたプラスチックごみは、地下施設で圧縮、プレスされる。このときごみにかかる力は、手の平サイズで約700キロ。強い力が、一気にプラごみにかけられることになる。

それにより、プラごみ同士は強力にこすれ合う。そしてこすれ合うことで、摩擦熱が生じる。この摩擦熱は、局所的にはかなりの高温度になり、さらに静電気やプラズマも生じて、すると固体としては比較的安定を保っていたウレタン系プラスチックが、その分子結合を解く。分解され、成分がバラバラになる。

そのとき、イソシアネートが発生して出てくるのである。

キーはだから、「摩擦」であった。 押し潰されたプラスチックごみに、摩擦が生じ、その熱でウレタンが分解され、イソシアネートが出てくる。焼却しているわけでもない杉並中継所から、このイソシアネート類をはじめプラスチック由来の数々の化学物質が出て来たのは、このためだったのだ。

この発生メカニズムは、津谷だからこそ見抜けたことだった。実は津谷は、この「摩擦」のスペシャリストだったのだ。応用物理学者として長年追いかけてきた研究テーマが、摩擦(トライボロジー)だったのである。

そこにもまた、津谷は杉並病との奇縁、運命的なものを感じずにはいられなかった。

杉並病の原因は、被害患者のなかにまさに津谷裕子がいたからこそ、行政の圧力で隠蔽されることはなく、解明することが出来たのである。


このときから約17年後の、2015年夏。津谷はふたたび、このイソシアネートと対峙することになる。

「大変!イソシアネートの値が高過ぎる!!」

計測器の目盛りを見て、津谷は思わず声を上げた。2台持ち込んだ計測器のうち、1台の針は高い数値を指し、もう1台の方は針が振り切れていた。およそ信じられない、目を疑うような値だった。

杉並病の苦い、手痛い経験を経て、津谷はその後NPO法人「化学物質による大気汚染から健康を守る会」(通称VOC研)を立ち上げる。大気汚染が起きたとき、その当事者たちが行政に頼ることなく、独自に空気中の汚染化学物質を調べられる-そんな市民団体が必要だと考えたからだ。計測機器を買い揃え、それを貸し出したり、自ら計測に出向いたりする活動を、津谷は精力的に行っていた。

このときもまた、津谷はつくば市にいた。同市に住む女性から、
「柔軟剤のにおいが苦しくてたまらない。発作を起こして病院に入院したが治らず、そのまま退院した。家に閉じ込もっているがそれでも苦しい。空気を調べて欲しい」

そう頼まれたからだった。同じような訴えは、守谷市の夫婦からも受けていた。

計測器は、イソシアネートの異常な高数値を差し示す。

柔軟剤が原因?

「柔軟剤です、絶対」 そう主張する女性に津谷は、
「そんなはずはない。柔軟剤からイソシアネートのような猛毒が出ているはずがない」と反論し、「近くに廃棄物処理場があるはずだから、調べてみなさい」と言った。

しかしすぐに、それが女性の言う通りだったことがわかる。柔軟剤から、イソシアネートが出ていた。

なぜ・・・柔軟剤から・・・?


2010年頃から、香りが長時間、いや長期間続く製品が相次いで発売されていた。花王「香りつき柔軟剤ハミング」、P&G「レノアハピネス アロマジェル」などがその最初だった。

調べてみると、これらの製品では香りを長く持続させるために、香料成分を極小のカプセルに封じ込めるという、新技術が用いられていた。カプセルに入った香料は、衣類に付着しそれがこすれ合うことで、少しずつはじけ、壊れながら香りを放出してゆく。それにより香りの効果がより長く続くことになる。そのことを狙った商品であった。

このカプセルのことを、マイクロカプセルという。その名の通り、直径が1ミリの1000分の1、数マイクロメートルから数十マイクロメートルしかない。いわば超極小サイズの、イクラみたいなものだ。

マイクロカプセル配合製品例(2022年) ©朝顔グラス@X(旧Twitter)

はじけて壊れる前は、だいたい花粉と同じサイズ。はじけた後の残さ、”かけら”はさらに小さくなり、黄砂やPM2.5と同じくらいになる。これほど極小になると、肺では引っかからず、簡単に血液に入り込む。血液に入れば、血管が通るところならばどこにでも行ける。心臓、肝臓腎臓、そして、脳にも。

このマイクロカプセルは、小なりとはいえその素材のほとんどは、プラスチックである。メラミン樹脂やポリウレア樹脂、ウレタン樹脂が使われている。そう、ウレタンである。

ウレタンは、衝撃やこすれ、摩擦による熱等でその分子結合が解けたとき、イソシアネートが発生する

『絵でとく日本におけるイソシアネートのすべて』 NPO・VOC研究会 2019年3月31日発行

杉並病が、そうだった。

そしてそれは、柔軟剤でもそうだったのである。

『絵でとく日本におけるイソシアネートのすべて』 NPO・VOC研究会 2019年3月31日発行

イソシアネートは、全国に広まった。柔軟剤の、その香りに乗って。津谷が事態に気が付いたときは、すでに香りは日本の津々浦々、あらゆるところまで広がり、そこの空気のすべてを、香りで満たしていた。イソシアネートという、猛毒をまきちらしながら。

そのなかで、その「香り」に耐えられない者は、咳込み、嘔吐し、喉を搔きむしり、呼吸困難となり、顔を真っ赤に腫らし、気絶し、逃げ惑い、職を追われ、困窮し、ある者は死を選び、ある者は山へ逃げ、そうして彼らは、社会の外へおっぽり出された。たかだか、「香り」のために。

©SORAIRO

それは、現象としてはまったく同じものだった。

杉並病と、発生メカニズムも、それによって化学物質過敏症患者が多く生まれたことも。

同じ化学現象だったからだ。ウレタンから発生した、トルエンジイソシアネート。猛毒で強力なアレルギー物質が、人々の健康を破壊してゆくという、杉並病と寸分違わぬ現象。

化学現象の恐しさがここにある。同じ物質が、同じ条件下に置かれれば、やはり同じ毒性物質は発生し、人はたおれるのである。

杉並病と「香害」は、17年の時を経て、またつながったのだ。


話がずいぶん先までいってしまった。急いで時計の針をまた、2000年当時まで戻そう。

北里病院を受診する半年ほど前、私は両親と共に、東京都M市にある公団ニュータウンに引っ越した。以前住んでいた横浜の家が、周辺の車の排気ガス汚染がひどくて、住んでいられなくなってしまったからだ。

そしてこの家に越してきた矢先、目と鼻の距離にあるーベランダ窓からその煙突がずどどーんと見えるーごみ焼却施設に、さらに排プラスチック圧縮処理施設が建設されるということを、一枚のチラシで知った。建設に反対する、住民団体のチラシ。頭が、真っ白になった。

それほど多くのことを、知っていたわけじゃなかった。でもそれでも、排プラスチック圧縮処理施設、イコール杉並病、イコール化学物質過敏症患者続出、ということくらいは知っていた。新聞でも民放ニュースでも、その頃さかんに報道されていたからだ。今思うと信じられないことだが。

杉並病で、化学物質過敏症を発症した人が多く出た。その原因となった排プラ圧縮処理施設、と同じものを、すでに化学物質過敏症になっている私の、家の、目と鼻の先に、つくる・・・!?

どうなっちゃうんだよ!?

というのが一番の思いだった。ただでさえ、もう 過敏症状がじわじわと顕在化してきているというのに、その上さらにそんな。

壊滅するんじゃないかな…私の身体は。


どう考えても、ここには住めない。何とか対処すれば何とか住めるなんて、そんなレベルじゃない。間違っていた。間違った引っ越しだったのだ。唯一の対応策は、「もう一度別の場所へ引っ越すこと」。それだけだ。

だがあぁしかし、引っ越してきたばかりじゃないか…!!

私は呆然とした。呆然として、家の中を見廻した。まだ開けてもいないダンボール箱が、引っ越し荷物が、部屋のあちこちに積んである。ここに来るまでに要した、その途方もない労力、お金、そして何よりも「引っ越しさえすれば何とかなる」と思いそれに賭けてきた気持ち。すべてが、一瞬で消し飛んだ。

これをもう一度、やれというのか…。

くらくらした。どうすればいいのか、まったくわからなくなった。途方に暮れるというのは、こういうことかと思った。

言えるのか、私は。両親に。もう一度引っ越してください、なんてことが。

それから半年経ち、私は北里病院を受診する。そして間違いなく私は化学物質過敏症である、と診断が下る。さらにその1か月後、再受診。

今度は、医師の先生にこのことを、ごみ焼却場と圧プラ圧縮処理施設のことを、相談しようと思っていた。どうすればいいのか。先生の言う「環境整備」で本当に、この事態に対応出来るのか。

つっ込んで訊こう、とは思っていたもののやや心許なかった。何でか、医師の先生というのは目の前にいると、大変に話しづらい。またあのクリーンルームに入ると、頭が若干ぼうっとなり、言いたいことの半分も言えなくなる傾向があった。離脱症状なのかも。なので事前に、尋ねたいことを手紙に書いて送ることにした。


 

手紙を、書いて出したのですが…

再受診の日、私はおずおずと先生にそう切り出した。

いえ、届いていませんが…

あ・・・そうですか…(がっくり)

仕方ないので、書いた内容を思い出しつつ、質問していった。先生がそれにまた一つ一つ答えてゆくという、前回とまったく同じパターン。

ごみ焼却場が近くにあるんですが…どうしたらいいんでしょう

うーん…でもまず、家の中、自室の環境整備ですね

でも、窓を開ければその空気が入ってきます

空気清浄器は使っていますか?

使ってます。でも全然、足りないというか…

フィルターを頻繁に変えたらどうですか

でも先生。入ってくるものが、家の中から排除出来るものより、遥かに多いんですよ。それってどうなんですか?

まあ…いたちごっこ、ではありますよね…

排プラ圧縮処理施設のことも話したが、答という答は何も見出せないまま、時間が来て診察は終了。そして先生はやんわりと、

ここは保険がきかなくて入室料も高価いですから、何かあったら今後は内科の方で…

と言った。

そうか…そうだよね。 私は思った。ここは、「診断」は出来るが、「治療」は出来ないところなのだ。 化学物質過敏症の根本的治療法はないのだから、それは当然だった。

わかりました。そうします

着替えて、またクリーンルームの外へ出る。においは未だ感じないが、何かもわっする、やや重たく感じる空気に身体がつつまれる。

ここにもう一度、来ることはあるのかないのか…なさそうだな…

そんなことを思いながらふと見ると、クリーンルーム入口脇の、スタッフルームみたいな部屋に、先生が出て来ていた。そして私が2日程前に出した手紙を、読んでいた。


奥野井さん、来てました、手紙

そう言って私に示し、また文面に目を戻した。そして読み終えると、

奥野井さん。N県へ行きなさい

「行ったらどうですか」でもなく、「行った方がいいですよ」でもなかった。「行きなさい」だった。

手紙の末尾に私は、つけ足しのように小さな字で、「N県に父が建てた家があり、そこへ逃げようかどうしようか、迷っています」と書いていた。それを読んでの言葉だった。「N県へ行きなさい」

逃げろ。

そう言ったのだ。

初めて、この先生の肉声を聞いた気がした。それまではずっと、建て前的な、公式見解のような言い方に終始していたこの先生が。診察室の外だったから、そう言ってくれたのだろうか。

やっぱり、そうか・・・。

私は、先生を見ながら頷いた。逃げる。逃げなきゃ、やはり駄目なのだ。逃げて、逃げて、どこまでも逃げて・・・。

同時になぜか、こんなことも考えていた。

化学物質過敏症の医師をやってるのも、なかなか大変だ・・・

治療法がない。薬もない。だから医師として、患者を治してあげるという喜びもまたない。化学物質を避けろ、化学物質から逃げろと言い続けることしか出来ないのだ。医師としては、  つねに敗北感を味あわされているのではないか。救えない、患者たち。化学物質の海で、溺れ、沈んでゆく患者の姿を、ただ見ているしか出来ない・・・。

私は、逃げよう。

N県の家にはまたそれで、重大な問題があった。決して安全ではなかった。でもそれでも、私は逃げる。そう思っていた。

@SORAIRO

<参考文献>

  • 『杉並病公害』 川名英之・伊藤茂孝著
    2002年発行 緑風出版
  • 『絵でとく 日本におけるイソシアネートのすべて』
    NPO化学物質による大気汚染から健康を守る会編 2019年発行
  • 「環境に広がるイソシアネートの有害性」
    津谷裕子 内田義之 宮田幹夫 『臨床環境』21 2012年
  • 「アスファルトもコンクリートもイソシアネートで危険!!」
    津谷裕子 VOC研究会
  • 『柳沢幸雄先生の空気の授業 化学物質過敏症とはなんだろう?』
    柳沢幸雄 ジャパンマシニスト社 2019年発行
  • 『マイクロカプセル香害 柔軟剤・消臭剤による痛みと哀しみ』
    古床弘枝著 ジャパンマシニスト社 2019年発行
  • 「香害被害 イソシアネートの抗体が増えている 子どもの免疫を脅かす有害化学物質」
    角田和彦 「JEPAニュース vol119 2019年10月号」NPO法人ダイオキシン
  • 環境ホルモン対策国民会議発行

(このページは2023年7月~10月にブログで公開した物語を1つにまとめたものです)

 
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