仕掛けられたうつ(chaptor1)

私のうつは、化学物質過敏症以前から始まっていた。気分が重く、だるく、人に会いたくない。
外にも出たくなかった。
そしてときに、激しい自殺願望がつのる。
でも不思議なのだった。
なぜこんなにうつになるのか、その原因が
何も見当たらないのだ。

見渡す限り、一面真っ白だった。雪だ。雪ノ原。降った雪にすっぽりと覆われた大地が、どこまでも続いている。斜面のあの向こうまで、ずっと。

晴れている。快晴だった。空には雲一つなく、抜けるように青く澄んだ空が、頭の上に広がっていた。そこから降りそそぐ日の光で、雪の一粒一粒がきらきらと光り、透き通っている。

突然、衝動が湧いてきた。腹の底から、むくむくと。私はおもむろに、思いきり下股でその雪ノ原に足を踏み入れた。ざくっと音がして、雪はわずかに沈んだ。スタンプのような自分の足形がそこに出来ていた。もう一歩逆の足を入れると、またざくっと音を立て雪は沈み込む。ざくっ、もう一歩。ざくっ、もう一歩。ざくっ、ざくっざくっざくっ・・・。

そんなことが、わけもなく楽しかった。沈み込んでゆく雪の感触と、そのリズム。どんどん出来て連ってゆく自分の足のスタンプ。まるで子どもに還ったように、無性に楽しかった。身体の底から楽しい。

あの斜面の丘の向こうまで、ずっと歩いて行きたくなった。ざくざくとこうやって、音を立てて歩きながら。どこまでもどこまでも歩いて行きたい。

わくわくしていた。そう今私はわくわくしていた。下腹の奥がちょっとかゆいようなこそばいような、それがまた楽しくて嬉しいようなあの独特の感じ。こんなわくわく感、久しく忘れていた。もう何年もずっと、こんな気持ちは味わったことがなかった。

©SORAIRO

そう、これだった、と私は思い出す。これ、この感覚。わくわく感と共に私は、かつての自分を思い出し始める。私はもともと、性来こういう人間だった、という感覚。雪ノ原を見たら足を踏み入れ、どこまでも歩いて行っちゃうような性格。それほど社交的ではないものの、ある時点からパッとスタートダッシュを切るような性格。悲観的か楽観的かと問われたら、本来は楽観的な方だった。


でもそんな私は、いつの頃からかまったく、表に出てこなくなっていた。

代わっていつも表に出ていたのは、イライラとしてつねに神経を逆立てている私。何だかよくわからない焦燥感に駆られている私。ささいな相手の言動に傷付き、それについていつまでもぐるぐると悩み続ける私。「将来の不安」に責め苛まれ押し潰されそうになる私。

そして、あるとき突然、わけもなく死にたくなる私。

うつだった。ここ何年もずっと私は、うつが続いていた。これまでに母は、過去に少くとも2回、「この娘はこのまま自殺するかもしれない」と思ったことがあった。また父も「自殺するかもしれないがそうなったらもう仕方ない」という、一種の諦らめと覚悟を固めていたという。それほどに私は、うつだった。

いやそれは、ついさっきまではそうだったのだ。ほんの1時間前、東京都M市のあの、ごみ焼却施設が目と鼻の先にあるという自宅から、父の運転する車で出てきたときには。

うつで、悲観度100%で、お先真っ暗。目に映るもの耳から入ってくるものすべてが、悲しくてやるせなくて、それがそのまま”死にたい願望”へと直結している。もう私は死ぬしか道はないんじゃないのか、などとえんえんと考えている。

しかしそれが、高速に入って幾つかのインターチェンジを抜けてゆくうち、変わってきた。頭の周囲にどろどろもくもくとかかっていたような黒雲が、少しずつ薄れてくる。そしてある時点で、まるで霧がさぁっと晴れるように失くなった。自分でも驚くような、劇的な変化だった。

頭の中は、いつの間にかすっきり晴れ渡っていた。もう何を見ても悲しくはなく、何を聞いても怖くない。死にたいなど露にも思わない。さっきまでのあの強力なうつ、〝死にたい願望〟は何だったのかと思うほどだ。まるで悪い夢から、ぱっと醒めたような。


そうして休憩のために立ち寄ったのが、この雪ノ原だった。実際は牧場で、牧草地にも実は除草剤を使うそうなのだが、このときは地表が雪に覆われていたから、それも出てこなかった。

素晴らしい空気だった。吸っても吸っても、喉にも肺にもどこにも引っかかることがない。まるで浸みとおるようにすっと入ってくる。どこまでも澄んだ、甘い空気。全身の細胞、そのすみずみまでが、この空気を喜び歓迎しているようだった。いやほとんど歓喜。気持ちいい!!の一言だった。うつなんてものは何処か遠い彼方へ、吹き飛んでしまっていた。

そんな、まるで野に放たれた犬ころのように喜ぶ私を見て、父と母はただ驚いていた。けれど娘のその変化を目の当りにして、もしかしてこれは、と思い始めていた。娘が自分たちに何度も、再三に渡って言っていたことは、もしや本当のことなのかもしれない。彼女の思い込みなどではなかったのかもしれない。

変化の前後で変わっていたのは、空気だけだった。後には何も、何一つ変わっていない。私が置かれている状況、抱えている問題、この時点では何一つ解決してはいなかった。だから突然うつが消えたのは、心理的なことが原因ではない。心理的ストレス要因が減ったからとかそういう理由ではない。それでは説明がつかない。

空気だ。

変わったのは空気。空気の質だ。ごみ焼却場周辺の空気から、何もは入っていないきれいな空気へ。

その瞬間、私たちは深く納得した。

このうつは、私のうつじゃないのだ。


うつが始まったのは、かなり以前からだった。化学物質への過敏症状が出てくるより、数年早かったように思う。

始まったのは、学生の頃一人暮らしをしていた、例のあの世田谷アパートからだ。住み始めて2年目の、春、5月頃から。

今でもよく覚えているのは、その5月のゴールデンウィークのことだった。休みの間中私はずっと誰にも会わず、誰ともしゃべらず、外出もしなかった。ずっと一人でアパートに籠もり続けていたのだ。

なんでそうなるのか、自分でもよくわからない。何か特にきっかけがあったわけでもなかった。ただどうしてか、気分が重く、人に会いたくなく、しゃべりたくない。外出もしたくない。買い物にいくのすら嫌だった。スーパーやコンビニでレジの店員とお金の受け渡しをするのがもう嫌なのだ。その相手の視線や目線が、こっちまで突き刺さってくる気がする。それが嫌。嫌で、わずらわしくて、そして怖い。

逆にアパートに一人籠っていると、自分が無限に広がって自由になっていくような気がした。一人でいれば、何ものにも捕らわれず何ものにも汚されず、何ものにも傷付けられることがない。思う存分、心ゆくまで自分の内に浸っていられる。安心安全。そしてそうやって一人籠もっていればいるほど、何か自分の‘‘純度‘‘というようなものがどんどん上がってゆくように感じた。純度100%の自分になれるような。よりピュアでナチュラルな自分になっていけるような。

最初はだから、一人でも十分楽しかった。

苦痛感はまったくなかった。好きな時間に起きて好きな物を食べ、だらだらとテレビやレンタルしてきた映画なんか観る。眠くなったら寝る。何もかも敷きっぱなしの布団の上でやっているので、寝るのも苦しゅうない。ごろごろだらだら。ひたすらのんべんだらりだらだら。ある意味至福だ。

しかしそれでも、何でこうも人を避けたいと思うのかな?とはどこかで思っていた。コンビニの店員をどうしてそこまで、「怖い」と感じるのか。別にコンビニで店員から、傷付けられたことがあったわけでもないのに。

このときは、ゴールデンウィークが終わり授業が始まると、またすんなりと外へ出かけるようになった。「授業に出る」という目的が目の前にあれば、外に出るのもさほど抵抗感はないというのも不思議といえば不思議だった。

そして一歩外に出てしまうと、人に会うのもしゃべるのも、それほど苦痛ではない。気が付けばちゃんと、いつもの友人と会ってしゃべり、バカ笑いしてたりした。そしてそういうときはたいてい、自分がアパートに籠って一人モンモンと考えてたことなど、忘れてしまっている。あれ?


しかしまた別のとき、こんなこともあった。

レンタルビデオを、2本か3本、貸りていたのである。DVDではなく、当時はカセットビデオのVHS時代。

返却が1日遅れると、延滞料として1本300円取られるというシステムだった。2本だと1日600円、3本だと1日900円ことになる。

それを私は、まる1週間返しにいかなかったのだ。1週間、つまり7日間!

忘れていたわけじゃない。 それどころかしっかり覚えていた。覚えていて毎日、1日ごとに加算されていく金額を計算しながら恐れ慄いていた。冷汗かいていた。

今日で1200円(か1800円)、今日で2000円(か3600円) 今日で、、、

朝起きるたび、今日は行こう、今日は返しに行こう、と思うのだ。絶対行こう、と。

でも行かない。いや行けない。アパートから外へ出るのが、何か嫌。出たくない。そうしてぐずぐずしてるうち、夕方になってしまい、「ああ、もういいや、、、」と放棄する。7日間の間ほぼ毎日、ずっとその繰り返し。

さっさと返しに行った方が、ずっと楽なはずなのだ。一日中ビデオ返却で思い悩み、悶々と過ごすよりは遥かに。でも行けない。出来ない。何か強力な魔法でもかかってるかのように、どうしてもドアを開けられない。開いて出ていけない。それはなにかもう、もの凄い禁忌であるような気がして、梃子でも外に出られないのだ。その拘束力たるや。

なぜ出られないのかといえば、やはり「怖いから」なのだった。何が怖いのかって街を行く人たちが。歩いている通行人の人たちが。

外に出た途端、彼らが一勢にこちらを見て、私を責め立ててくるような気がする。いや責めないにしても、私を見るその目が、私を批難する色を濃厚に帯びている気がする。視線で責めてくる気がする。向こうを歩いているサラリーマンのおじさん、立ち話をしている主婦らしきおばさんたち、自転車に乗っている若い青年、下校途中の小学生の子どもたち…それらがみな一勢に、私を見て目で批難してくるような、その視線がまるで吹き矢のようにヒュンヒュン飛んで来てはこの身体にブスブスと突き刺さるような、そんな気がするのだ。

それが怖いのだった。だから外には出られない。どんなに悶々として苦しくとも、このアパートの部屋の中にいれば安全だった。唯一安全な場所がここ。ここしかない。そう思うのだった。この強制力はかなりなもので、自分でもなかなか抗うことが出来ない。


だがしかし。7日目に遂に限界が来た。理性が恐怖に打ち勝った、といわんより、日々積み重なってゆく延滞料金の恐怖の方が外に出る怖さより勝った、という方がたぶん正しい。私は猛然と返却ビデオと財布を持ち、外に出た。そして自転車に乗り、レンタルビデオ店へとひた走った。

何ともなかった。全然まったく、何ともない。拍子抜けするほどに。

街を道行く人たちは、私などに目もくれずそれぞれ仕事や学校、バイトや何かに励んでいた。

誰一人として私に、避難の目など向けてこなかった。だから私も何ら傷付くことはない。何一つ怖くない。まあせいぜいがビデオ店のレジのお兄さんが、
「お会計…(えっ!?と目を丸くして)えーと延滞料金が4200円(か6300円)になりますが…」

と大変に驚かれたとき、少々バツが悪かったくらいのものだった。恥ずかしくはあったが、でもそれで傷付きはしにない。

帰りの自転車を漕ぎながら、私は半ばぽかんとしていた。何だこれ?何なんだこれは?何だったんだアレは?そんな言葉がしきりに浮かんでくる。久しぶりに出た外の、吹く風は気持ちよく、日の光は明るく、街のようすはおだやかでのんびりとしていた。きれいだなぁと思った。私が一人アパートに籠もり、悶々と想像していたより遥かに、外の世界はやさしかったのだ。

じゃあアレは何だったんだ…?

と思った。私がアパートのあの部屋にいる間中、ずっと感じていたあの恐怖は。外の世界への怖さは。なぜあれほどまでに私は、外を、外の人を怖がっていたんだろう。
あの部屋で。あの部屋のなかで。あの部屋なかにいる私の頭のなかで。


94年、22歳の辺りから、私は日記を書き始めている。日記といっても最初は、ノートにでもなくそこらへんにあった紙に、ルーズリーフ用紙なんかに適当に書き散らしていた。日付も入ったり入ってなかったりで、バラバラ。

なぜか夜になると、書きたくなるのだった。想いや感情が、ふつふつと湧き立ってきてはあふれてきて、何かにぶつけずにいられない。夜中だと人に電話するのも迷惑だしそもしゃべりたくないので、それで紙に書きなぐっていたのだった。いわば自分を沈静化し、多少の整理をするため。

だから日々の記録というより、ただただ自分の想いの丈をえんえんと書いているのだった。 その日あったことをなどはサラリと一行で済ませ、あとはぐるぐると悩んでいることなどをぐるぐるぐるぐる書いている。もし他の人がこれを読んだら、鬱陶しいことこの上ないだろう。

そんな日記にいつの頃からか、「うつ」の記述が増えてくる。

うつうつうつうつ、、、うつだー。『パトレイバー』のビデオ3本も観といて何言ってるんだか。ははは。しょうがねーなー。でも何か暗雲立ち込めてんのよねー頭の周りにさ。もくもくと。あーうー。

あったま痛いしさー。もんもんとしてるし。何やっても疲れるしさー。ぶつぶつ。相変わらずイライラもするし。

だるいなー。だるだる。はー。なんかずーと眠っていたいなー
(94年11月15日夜)

うつうつうつうつ、、、ってうつではないんだけど。うーん。なんか結構イライラする。なんでだろうな。なんかささいなことですごくイライラする
(95年2月1日)

風邪なんだか、ウツなんだかわかんないけど、頭が痛い。そしてだるい。体調が良くないのは確かだな。ああだるい。眠い。何もする気が起こらないなー。

イライラする。かなり。小さいことでも発火材料になって心の中ですごく悪態つく。大声で文句を言いたくなる。なのにすぐ疲れてぼーっとする。自分の今考えてることがクリアになることが少ない。

何にも興味が持てない。

自分は何かを怖がっている気がする
(同11月18日)

「うつ」だけでなく、イライラ、身体のだるさ、眠気など。また「疲れる」という言葉も頻繁に出てくるようになる。


またある日には、こんなことも書いている。

なんか最近、現実感、自分がここにいるという意識が薄い。自分の意識が自分自身にパキパキと向ってないこと言う感じで、なんか8ミリを回して自分を見ているよう。なんか、誰かに動かされているような気がする。自分の意志とは無関係に。自分が全く自分でないような。

なんか、脳の一部が腐ってゆくような気がしてならない。または硬化。自分の意識のどこかが死んでいってるような。そんな危機感がある。バランスがとれない。自分と外界との間に紗幕がかかってる気がする
(94年10月21日深夜)

また次のような記述も繰り返し出てくるようになった。

対人関係がまた下手になる。社交辞礼とか軽口がたたけない。口調もとろくなる。のクセに口から出た言葉が異様にキツくなることもある』
(同年11月23日)

言葉のやりとりがぎくしゃくしてやりにくい
(95年11月18日)

しゃべるのが下手になった。話題も続かない
(同9月25日)

どうしてか、思ったように話せない。しゃべれないのだった。相手とのコミニュケーションというより、自分のなかの「言葉の連携プレー」が上手くいかない。何かを言われても言葉が頭に浮かんでこないことがあったり、 また言葉は浮かんでくるのだが口からはまったく違う言葉が出てしまった、ということもあった。脳の、言葉を想起する部分や、それを口に出していうところ辺りのその連携が、おかしくなっている。スムーズにいかない。

おそらくこの症状がよりひどくなると、99年の夏に私が農薬で発作を起こしたときのように、頭の中には何一つ言葉が浮かんでこず思い出せず、口も言おうとしても何を言えない、という顕著な状態になるのだと思う。いわば失語のマックス状態。


これは、どこから見ても「うつ」だった。

身体のだるさや言葉が上手くしゃべれないといった、一見うつとは無関係に思える症状も、実はうつの範疇に入る。医学的にはこういったうつに付随する身体症状を「精神運動障害(PMP)」というらしい。「気分」だけでない、より具体的な身体能力や認知機能の低下のことをいう。

よくうつになった人が、布団にくるまったまま何もしないというのも、また家族ともろくに話そうとしないのも、「気分の落ち込み」だけが原因ではないのだ。本当にそこんとこの機能が、低下して落っこちているのである。

当時の私にはそこまでの「うつ」の知識はなかったが、自分が「うつ」になっているという自覚はあった。あー私うつだなあとはっきりと思っていたし、一度ならず精神科へ行こうと考えたこともある。

ただ一つだけ、わからないことがあった。

ウツだ。多分。またまたウツになってしまった。あーあ。今日は何故だろうなー
(94年11月14日夜)

何か悩んでいるというのではないが、またウツなのかね?自分が何に対して不満を抱いているのか、自分でよくわからない。だけど何かイライラして、思い通りいかないと思ってる。何なのかね?
(95年6月4日)

「ウツだ。またきたって感じ。」原因なんてもはやわからない。何か操られてるかのように、イライラしたり落ち込んだりする。スイッチを切り換えてるみたいに
(同6月12日)

ある意味ではこの苦しみは、自分の中から生まれてくるものであって、直接他人に言われたことはほとんど無い。自分で作り出してるんだけど、でもどうにも止められないし。どう思考を変えようとしても駄目なんである。ならいっそ何も考えないようにした方がいい位だ。本当にどうしてこうなるんだろう?
(同6月14日)


サイアクな気分はまだ続いている。何故こうなってしまうのだろう。
誰かに助けを求めた方がいいんだろうか?

なんかもー駄目って感じ。この苦しみは一体どこからやってくるんだろう?
体がだるい。何の希望も見つけられない。
世界中どこを探しても自分の居場所はない気がする。
死にたいとはまだ思わないけど、どこかでずっと眠っていたい気がする。

もし神様とかがいて、私の人生設計図とかすべて出来てるんだとしたら、
私がどうすべきなのか教えてほしい。苦しい。もう嫌だ
(95年6月17日)

別に殺人も、犯罪も、留年も、失恋も何も起きていないのに、
何かもう駄目だという気分がする。それがウツなんだろうけど
(同6月18日)

もうウツの原因とか、どうして落ち込むのか、とか、
だからこう考えればいいのだ、とか、あがいてもまったく駄目。
何をしてもムダ。頭の上の暗雲が去ってくれるのを待つのみ
(同6月20日)

再三に渡り、日記に何度も何度も、繰り返し書いているのは、自分のこのうつの原因がわからない、ということだ。 なぜこうも気分が落ち込むのか。なぜ「もー駄目」と思ってしまうのか。

日記にもあるように、学生生活そのものは何のトラブルもなく送れていた。誰かに傷付けられたり、意地悪されたり、こっぴどく失恋したわけでもない。現実には何もひどいことは起きていない。なのにときに「死んでしまいたい」という気持ちが胸に衝き上がってくる。

なんかねぇ、眠り薬とかあってさ、一粒飲んだらずーっと眠っていられて、楽しい夢を見て、一生終えるってのがあったらいいなぁ。まわりに迷惑とかかけないで。そういうのいいなぁ
(同3月13日)

何もかも、古い遺跡のお城が砂になって朽ちてゆくように、この世界がさらさらと崩れていって、何もかも消えてしまうと、楽になるんだけども
(同9月17日)

そんな想いが、時折ふっと湧き起こってくるのだ。なんかもうここで、何もかも終わらせちゃいたいなーという、妙に軽いカジュアルな自殺願望。しかしこれでもまた、なぜそう思うのかは、自分でもわからない。本人にも何も思い当たるフシはないのに、なぜ自殺願望だけが勝手に先走るのか。この「うつ」はいったい、何なのだ。何がどうなっているのか。


自分のこの「うつ」の原因は、なかなか見えてはこなかった。

がしかし、その答の一端がちらっと垣間見えた出来事が、偶然起きた。95年の夏のことである。

「留守番しに帰ってきてくれない? 猫つれてくのは大変だって、パパがね」

両親がこの夏の休暇に、N県にある別荘へ行くという。2週間程。それでその間私に、家の留守番と飼い猫の世話をやってよ、というのだった。

おぉ、渡りに舟!と電話でそう言われた途端思った。というのは、この夏のアパートの暑さがもの凄く、ただでさえうつやらアトピーの悪化やらで体調が今イチだったこともあり、大変にこたえていたのだ。世田谷アパートよりは横浜の実家の方が断然涼しい。OKOK大歓迎、とばかりにすたこらさっさと実家に帰った。これが7月27日辺りのこと。

一人だけど、猫もいるし、別段寂しくもない。別に私は悲観的な人間じゃないのだ。孤独にも強いみたい。

いやー、おそろしいほど頭使わんなぁ
(95年8月3日)

プレッシャーがないと、深刻に考えることもないので、ものすごく楽。ちょっと考えなさすぎで脳みそパーかな
(同8月9日)

あとはうーん、書くことそんなにないな。今日も半ページ。はっきり言って書くことないの
(同8月21日)

思い上がりかもしんないけど、私って今現在は”わりといい人”かも。というかそんなに人に嫌われてはいないっていうか。

先輩方からのお誘い(花火大会~)もあるし、○○たちとは今度旅行に行く。後輩ともちゃんと付き合えている。だからそんな悪くない。捨てたもんじゃない
(同8月24日)

この記述のたかだか2ヵ月前には、

サイテー、サイアク。死にそう。何の解決もなく次の日になる。うんざりする。思考自体がマイナスに向ってるから、何が起きてもマイナスにしか考えられないから、明るく考えようとしてもムダなんだよ。なんか本当にもうおかしいかもしれない、言動とか。苦しい。笑ってるのも苦しい。どこかでずっと眠っていたい。なんか全てが面倒くさい
(同6月17日)

なんてことを書いていた人が。同じ人物が書いているともちょっと思えない。たった2ヶ月の間に、こうも心境や考え方、自己認識がガラリと変わるなんてことが、普通あるものなのだろうか?


この実家帯在は、結局約1ヶ月に及んだ。最初は両親が帰って来たらすぐ世田谷に帰ろうと思っていたのだが、あまりにも心身ともに体調が良いので、ずるずると延ばしたのだった。この帰省中に、ひどくなっていたアトピー性皮膚炎がみるみる治ってしまったこと、以前書いた通り。

けれど学校の授業もそろそろ始まる、ということでまた世田谷アパートに戻った。これが9月3日。

今日はだらだらして過ごした。今朝方、なんでかすっごく寒くて、
自分でも咳してるのがわかった。風邪引いたらしい。うー、本気で私は体弱いな
(95年9月5日)

今日もずっと家にいた。昨日以上に。
体調が良くないのか、わかんないんだけどなんかだるくて、
どこにも行こうという気にもならなかった
(同9月6日)

ウツだ。またなってしまった。どうしようもない。
身体がものすごくだるい。前にもあっただるさ。
自転車でアパートに帰ってくるのも一苦労。ものすごく疲れる。脱力感。
どうせアパートに一人でいても、ぼーっとして何となくずぶずぶと堕ちていくから、
本当は外に出た方がいいのかもしんないけど。
今は、実家に帰りたいと思う。でも帰れないし。
あんまりヤバイ自分も見せたくない。あぁヤバイヤバイ。
具体的に何か起きたわけじゃないのに、この2、3日で下降してしまった。
ウツ病かなぁ・・・。
しかしこの脱力感、どうにかならんかね。あと気持ち悪さ。頭痛
(同9月9日)

今ドン底じゃないけど、底かな。疲れてるせいかもしれない。
なんか生きてくのが、いろんな部分で怖い。漠然と怖い。
何が怖いという具体的なことは何も無いんだけど
(同9月16日)


今日は一日中ほとんど家にいた。
というのも台風が来ていたからで。疲れてたし。

家にいてだらだらごろごろしていた。考えると暗くなる。
考えなければいいのだが人間そうもいかず。
なにか、あんまり考えてると違う世界へ行ってしまいそうで怖いのだ。
それもいいのかもしれんが。

今のこの気持ちのモヤモヤは、漠然としすぎていて言葉にすら出来ない。
ただ単に体調が悪いだけなのかもしれず。
具体的にはさして悪いことって本当何も起こってないんだけども。

最近は、自分が自分である、という自覚もスッとうすれてゆく。
自分がここに存在している自覚がうすれていって、一つの目だけになる。
(その目が外界を映すカメラになっている)
何かどんどん、自分が自分でなくなってくみたいな・・・
何もかもぼやぁぁぁぁっとしている
(95年9月17日)

なんかもう身体の方がボロボロですな。
疲れるし、肺のあたりまで痛い。
身体が悪いのか、心の方が悪いのか、今一つ判別出来ない。
医者に行った方がいいかもな
(同9月18日)

授業。たかだか2コマの授業で疲れ果ててしまうとは。
なんなんスっかねもう。吸が少し苦しい。肺が苦しい。
夜になると苦しくなる。明日医者に行こう。
あーもう全然いいことないわ、最近
(同9月19日)

そしてその翌日の9月20日、私は医者に行く代わりに、突如実家に帰ったのだった。もうここには住まない、住めないだろうと半ば思いながら。

当時の私は、何も知らなかった。化学物質過敏症のことはおろか、身の廻りの化学物質-環境科学物質-という観点そのものを、持っていない。情報ゼロ。だから何も知らず、何もわからない状態だった。ただただ、身体のあちこちに出てくるわけのわからない症状に、翻弄され引きずり廻されている、だけ。

しかしそれなのに、なぜかこのときふと、”あ、帰ろう。帰らなきゃ”と思ったのだった。ここは駄目なんだ、という理屈ではない、しかし強い確信が。何か、別のものが私の背中をすっと押したような、それに促されてそう思ったような、今思ってもそれは何か、不思議な瞬間だった。


そうしてまた、すたこらさっさと実家に逃げ帰ったのだった。9月20日。その10日後の日記がこれ。

帰って来て半月たった。身体はだいぶ良くなってきた。
肌の方も少しずつ治ってきている。

精神的プレッシャーがかかんないのと、
あんまり自分のこと考えなくなったので、
いいのか悪いのかわかんないけど、安定している。

あー書くことない。うっぷんたまってると書きたくなるけど、
今はすごく安定してるし、何の悩みもないし。
2年間で“悩み癖”が付いちゃったのかな。
始終何か悩んでないと自分の存在意義がナイ・・・みたいな?
何じゃそりゃ。
やっぱ人間、一人だということいろいろ考えちゃうのかねぇ
(95年9月30日)

こっちに帰ってきて、身体もよくなってまたせいか、
ほとんどウツもないし、プレッシャーもないし、もちろん孤独感もない。
とするとあの2年間のウツの日々は、
やはり孤独感からやって来たの・・・だろうな。あんま認めたくないが。
一人暮らしって性に合ってると思ったんだけどねぇ
(同10月5日)

精神状態が、つまり気分や心境の変化や自己認識といったものが、環境によって左右される、もっといえば環境中の化学物質によって大きく影響を受ける、などということは、考えてみたこともなかった。ちらりとかすめたとすらない。

なぜなら、精神の領域のことは精神の領域だけで、解決されるものだろうと漠然と思っていたからだ。心の問題は心でのみ何とか出来る、治せるものなのだと。だから私はうつの間中ずっと、何とか「考え方」を変えることでこのうつの状態から脱出しようと、日々あがいていたのである。結局いつもそれは成功せず、うつに打ち負かされていたのだったが。


しかしそのうつも、環境を変えることであっさりと治ってしまった。そのことを当時の私は、「孤独な状態ではなくなったため」と解釈している。がしかし、では8月の一時帰省のときはどうだったのだろうか。あのときは両親はN県に行っていて不在で、だからやはり「一人」だったはずなのだが。            

アパートで、夜、一人で映画観てるとか好きだったんだけどねぇ。でも人間、あんま一人でいるのも良くないんだろうなぁ。こっちに帰ってきて、こんなにテキトーに立ち直ってしまったというのも、なんかバカっぽいよねぇ。まあいいけど。

やっぱ寂しかったのかしらん。でも多少それもあると思うけど・・・環境が悪かったこともあるんじゃないかな。(と環境のせいにする!)
(95年10月5日) 

今となっては、世田谷アパートやその周辺の何がここまで影響していたのか、もうわからない。

道一本隔てたその向こうに走る世田谷通り、そこを昼夜ひっきりなしに行き来していた車やトラックの排気ガスだったのか。壁や床をリフォームしてまだ2年しか経っていなかった、あの部屋だったのか。たしかにあの部屋は、壁を叩けばボコンボコンとベニア板の音がする、そのベニア板の上にただびたーっとビニールクロスを貼っただけの、相当に安普請な部屋だった。たぶん接着剤もふんだんに使っていただろう。

それとも、唯一かなり早くから反応を示していた水道水だろうか。ときどきバスタブに湯を張ると、湯面に怪しげなサビの切片が幾つもフヨフヨと浮いていた。水道管は相当にヤバそう。アトピーは確実にあの水で悪化した。

どれか一つというのではなく、おそらくこれらすべてが少しずつ影響し合い、累積していったのだと思う。長い時間をかけ、降り積もっていた。


けれど一つだけ、何年も後になってからあっと思ったことがある。押し入れだ。

アパートを引き払うことに決め、その引っ越し荷物をまとめに行ったときのことだ。中に入っている物を出そうと、そのドア式の押し入れの戸を開けた。

途端に中から、驚くほど甘っぽい空気が出てきた。まるでガス体のような、もわああんとしていた重たい空気が。

一瞬ですぐわかった。「あ、バルサンだ。」昔実家でも何回か使ったことのある、あのくん煙式殺虫剤のニオイ。同じニオイ。

もしかしたら大家さんが、私が入居する前にその押し入れの中にバルサンを置き、とは閉めずに部屋中の殺虫処理をしたのかもしれない。それで濃厚に押し入れに、この殺虫剤特有のニオイとその成分が浸み込んだのかもしれない。

そして私はこの2年の間、この押し入れのすぐ前に布団を敷き、押し入れの方に頭を向けて寝ていたのだった。戸はもちろん閉めている。が、密封されてるわけではないから、中から少しずつ漏れて漂ってはいただろう。それと寝ながら私は、吸っていた。吸い込んでいた。2年間の間ずっと、この異様に甘い空気を。

畑や果樹園の近くで育ったわけでもなかった私が、このときより4年後に農薬(有機リン系殺虫剤)で倒れ化学物質過敏症を発症したのは、その伏線は、ここから始まっていたのだろうか?


それももう今となってはわからない。すべては後付けの憶測である。確かめようもない。

唯一言えることはただ、「この世田谷アパートにいると、心身共にひどく具合が悪くなり、他所へ移るとその症状が消えたり緩和する」という事実だけである。そしてこの事実のなかに、間違いなく精神症状 ―うつー が入っていた、ということだ。

環境化学物質は、精神症状をも引き起こす要因となる。

当時の私はしかし、このことにはまだ気付いていない。状況証拠はかなり出揃っていたものの、そこに至るまでの根拠となる「情報」が、決定的に欠けていた。人間、いくら証拠が揃っていても、身体で知覚していたとしても、その中心となる観点ではなければなかなかそれには気付けない。わからないのだ。

パズルのピースは、かなりのとこ埋まっていた。 でも私は、一歩引いてその絵柄をまじまじと見はしなかったのだ。「心の領域は心の領域でのみ解決する」という、‘‘常識‘‘に捕らわれていたから。だからこの後も何年も、うつで苦しむことになった。

もしかしたらそれは、今現在の大多数の人も、そうなのかもしれない。

(このページは2023年10月~12月にブログで公開した物語を1つにまとめたものです)

 
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