そこには何か、一種不思議な熱気、のようなものが漂っていた。
熱気というか、熱意というのか。うっすらとした期待感と、そして同じくらいの不安感も。
普通の病院の待合スぺースとは、あきらかに雰囲気が違っていた。普通はもっと、気怠いというか暗いというか。それはそうだろう、身体の具合が悪くて、何かの病気じゃないのかと思っていたり、あるいはすでに病気で通院を続けている人がほとんどなのだから。そうして皆自分の診察の順番が来るのを、じっと待っている。
それは私たちも同じだった。ここ北里病院のなかの待合スペースで、診察を受けるべく待っている。ふかふかした白いソファーに座っているのは、男女合わせて6、7人くらい。そうして一同、すぐ向こうにある「診察室」を、じっと見つめている。何やら熱い、フツフツしたものをたぎらせながら。
「前の診察が長引いているので、すみません、もうしばらくお待ち下さい」
その「診察室」から、看護師さんがきびきびとした足取りでやって来て、私たちにそう告げた。我々一同頷くと、また看護師さんはきびきびと「診察室」の内に戻ってゆく。
そこは、二重の自動ドアで仕切られていた。見ていると、どの看護師さんも皆、一つの自動ドアが閉まり切るまでは、もう一つの自動ドアを開けないよう、気を配っていた。特に、今私たちがいるこちら側から、内に入るときがそうだった。そうして極力、こちらの空気が内へは入らないようにしている。
あれが、”魅惑のクリーンルーム”か・・・。
私は思った。あの二重ドアの向こうは、こことはもう違う別世界。あのなかはこっちとは、まるで違う空気が流れている。まるで三ツ星高級ホテルかセレブ御用達クラブか。はたまたお城か宮殿か。とにかくそんじょそこらにある診察室とは”つくり”が違うのよオーホッホッホ!
と、高笑いするのも無理はない。おそらくここは、この「診察室」は日本にただ一つ(当時)の、そして世界にもたぶんそう幾つもない、特別仕様なものなのだ。
診察室の内の空気の化学物質濃度が、極めて低いレベルに抑えられている。通常なら、300~500PPbくらいある化学物質の総量を、わずか30PPbまで落としているのだ。
この”空気”を作り出すために、数々の配慮がなされている。
床は、御影石を使用、壁と天井はホウロウ引きの鉄版、その他のところはガラスやアルミを多用している。検査機器の台はオールステンレスで、椅子や家具の類は広葉樹からつくった無垢材仕様。なんで広葉樹なのかというと、スギやマツなどの針葉樹には反応する患者が多いからだ。
つまり床からも壁からも家具からも、化学物質が出てこないようなされている。これらの部材はすべて、もとから化学物質を揮発しないので。
そしてとどめが、この診察室の全スペースの約4/7を占める程の、巨大な空気清浄装置。あっちとこっちとでは流れている空気が違うのよ!というのも、実は比喩ではないのだ。本当に違うのである。
あの二重ドアの向こうに・・・
もうすぐ入れる、と思うと、何やらドキドキ。おぉ、ちょっとワクワクするじゃないか。
いったい内は、どんな”空気”なんだろう・・・。
話はちょっとさかのぼる。
やっぱり化学物質過敏症(CS)の診断は、もらっといた方がいいかもなぁ・・・
とそう思い始めたのは、このときより5ヶ月前になる、2000年の6月頃のこと。
自分では、私は間違いなくCSだろうと思っていた。が、それでも医療機関でちゃんととそう診断してもらった方が、気持ち的にも白黒はっきりついていいんじゃないか。踏ん切りもつくし、覚悟も決まるし。
それに診察となれば、当然この化学物質過敏症専門の医師に会えるわけだ。CS専門の先生にこの病気のことを、治療法も含めて、いろいろ教えてもらいたかった。この病気にどう対処すればいいのか、どうしたら治るのか。少くとも悪化しないのか。尋ねたいことは、それこそリストを作れる程たくさんある。
とにかくこの病気は、わからないことだらけだ。ある日突然(これは誇張ではなく本当に)、身体が身の廻りにある化学物質に反応し始める。前の日まではごくフツーに使っていた、たとえば台所洗剤とか化粧品などの「におい」を突然感じ始め、強い頭痛に襲われる。当の本人も最初はわけがわからない。立ち竦み、ただオタオタするしかない。
2000年のこの頃すでに、化学物質過敏症の患者支援団体はあった。「化学物質過敏症ネットワーク(CSネット)」がそれである。(現NPO法人化学物質過敏症(CS)支援センターの前身)
私もネットでその存在を知り、ホームページを食い入るように読んでいた。パソコン自体にもうっすら反応し始めていたので、かなり必死に。それでCSのイロハ、身の処し方を懸命に学習していた。
ともかく、日常の生活から”化学物質”を、なるべく早く取り除いてしまうこと。そうして身体にかかる総負荷を、少しでも減らし軽くする。やるのはまず、そこからだった。
手始めに、台所洗剤(マ○レモン)の使用を止めた。シャンプーはそれまでも使っていなかったが、ボディシャンプー(ビオ○U)もやめる。洗濯洗剤(アタッ○)も全廃。合成洗剤をすべてやめ、天然純石けん一本にした。
両親からブーイングがあると思ったが、意外とこれが何もなかった。というのもわが両親は2人とも戦前生まれなので、だから母いわく、
別にいいわよー。昔は何でも石けん一つだったわよ
というわけ。これは大変ありがたかった。
食事も、お米と野菜は完全無農薬のものにした。また肉や魚、加工品も極力無添加のものに。パンは、国産小麦使用のものを選んで買うようにした。ヤマ○キのコッペパンよ、さようなら・・・。
そして水は、料理用も含めてすべて、ペットボトル入りの天然水に切り換えた。これはかなり思い切った決断だったが、水への反応が私の場合かなり強いので、やむを得なかった。
以前より、食費(プラス水代)はかなりかかることになる。が、口から入る”化学物質”を減らさない限り、この病気は駄目なんじゃないか、回復の道の端っこにも辿り着かないんじゃないか、と思ったのだ。
もともと私は、食物アレルギーが強い。だからここは、どおおおしても譲れなかった。半ば直感だったが、食べものの影響は決してあなどれないものなんじゃないかと、思っていた。
この食品の切り換えに関しては、母は最初は少し苦言を呈した。何もそこまでやらないでもいいんじゃないか、と。しかし私が、勝手に自然食品の店で強行して買ってきた無農薬の小松菜をおひたしにして出したところ、父が、
うまいねぇ。この菜っぱ、子供の頃食べた野菜の味がするよ。うまいうまい!
と絶賛したことであっさり解消した。そう、無農薬のものは野菜に限らず、何でもとてもおいしいのである。
と、このような生活面での改善、身の廻りにある”化学物質”を取り除くべく方策が取れたのも、「CSネット」のホームページ情報のお陰だった。そこに載せられていた、日本全国津々浦々に散らばっているCS患者たちから寄せられた、まさに血の滲むような情報のお陰。
それはまさに、CS患者たちの思索と知恵、創意工夫の宝庫だった。
この化学物質が溢(あふ)れる世界のなかで、いかにして化学物質を避けるのか。生活の中に持ち込まないようにするのはどうしたらいいのか。使えないものの代替品は何がいいのか。無農薬野菜はどこで手に入るのか。刺激のない衣類は?布団は?浄水器や空気清浄機はどこのメーカーのものが良くてどこのがダメだったのか。針やマッサージは効くか。サウナはどうか。歯の治療はどうするか。サプリメントは効果があるのか・・・等々等々。
それぞれの患者たちの、トライ&エラーの数々。まさに現場の、生きた情報がぎっしり詰まっていた。それらのノウハウの一つ一つ、失敗したネガティブデータの一つ一つが、貴重だった。それが”次の”患者たちを確実に助け、事によっては救いさえしたからだ。まるで手渡しのバトンのようにそれは、患者から患者へと、手渡されてはつながれてゆく。私などもそのバトンに、大いに助けてもらった一人だった。
思うに、当時の患者たちはどの人も―おそらく初期の患者ほど―このまるでわからない病気を前に、必死になって一つの「地図」を作ろうとしていたのではないか。見えないなかを手探りして、懸命にこの病気を、その”かたち”を見極めようとしていた。そうして一つ一つの空白を埋めるように、「地図」を作っていたのだ。後の人が迷わずに済むような、「CSの地図」を。
話がだいぶ大廻りに迂回してしまったが、そんなわけでCS患者の生活ノウハウ、みたいな情報は、私もかなり集めて、充実しつつあった。ホントにありがたいことである。
が、しかし医療側の情報というのには、未だアクセス出来ていなかった。CS専門の医師の見解や治療法、医学情報的なものがあるならば、ぜひ知りたい。知って治したい。そのためにもまず、病院へ行かなければ。
まずは予約だ。
この化学物質過敏症では当時一番の専門であるという、北里研究所病院のアレルギー科化学物質過敏症外来に、電話をかけた。朝起きれないところを、頑張って7時起き。
と、何と5ヶ月待ちだという。予約を取ることは出来たものの、今6月だから11月まで待たねばならない。ええーっ!予約殺到中、なんだとか。びっくり。そんなに患者がいるのか・・・二重にびっくり。
まぁ仕方がない。待つしかないよね、と思っていたら、当の北里病院からぶ厚い封書が届いた。事前の、患者への問診・質問表だった。びっくりする程枚数が多い。数えてみたらひぃ、ふぅ、20枚近くある。
最初の10枚は、患者のこれまでの病歴や住居歴、そしてまた今住んでいる家や職場の「環境」を尋ねるものだった。この場合の「環境」とは、ずばり化学物質がどのくらいあるか、ということだ。
その項目は、実にこと細かい。
たとえば自宅の場合、車の駐車場やガレージは家のどこに、何メートル先にあるか、とか、一番長く過ごす部屋の床は畳かじゅうたんかフローリングか、とか。 暖房は電気かガスか灯油か、ペットは飼っているか、家庭内で殺虫剤や芳香剤やトイレクリーナーや床ワックスを使用するか、使用するならその商品名は何か、寝具はベットか布団か、その寝室に観葉植物は置いてあるか、なんてことまである。何とまぁ、訊いてくる項目のこの細かいことよ。
しかし同時にまた、ごく普通に暮らしているだけで、結果これだけの化学物質に取り囲まれることになるんだな、と改めて思ったりもした。
記入してゆくうち、だんだんわかってきた。
これはつまり、患者である私が、過去及び現在、どれだけの化学物質に身を曝(さら)してきたのか、曝しているのか、つまり環境からの化学物質の曝露(ばくろ)歴を、尋ねているのだな、と。
それで初めて、自分でも気付いたことがあった。
私ほぼ新築ばっかりじゃん!!
生まれたとき住んでいた団地が新築2年目、その次に越した公団マンションはばりばりの新築、そして学生時代一人暮らしした世田谷アパートも、リフォームして2年目の物件だった。当時CS界(?)では「新築の家を3軒渡り歩いて住むと間違いなくCSになる」という噂がまことしやかに囁かれていたのだが、私はほぼそれに当てはまる。ま・まじか・・・
問診表後半の10枚は、今現在の記入者、つまり患者本人の、化学物質への反応度合を尋ねるものだった。
たとえば「化学物質曝露による反応」という質問では、「車の排気ガス」「タバコの煙」といった項目が10個並び、それぞれについて、
0=まったく反応なし
5=中程度の反応
10=動けなくなるほどの症状
のなかから、自分に当てはまる反応レベルを選び記入してゆく。
私の場合「排気ガス」には迷わず10にマルをつけ、「タバコの煙」や「消毒剤、クリーナーの類」は5、「ペンキやシンナー」は9、といった感じ。合計すると、100点中私は45点となった。
さらに同じ感じで、「症状」「日常生活の障害の程度」などがあった。
この後半10枚の質問表は、「QEESY(クイージー)」というものだ。1998年に、アメリカの医師ミラーによって開発された、化学物質過敏症のスクリーニング(他の病気と混同しないためのふるい分け)を目的としたものである。
日本には、CS医療の草分けである石川哲(いしかわさとし)医師が、翻訳し導入した。現在でも医療機関等で多く使われている。
これらの、詳細な問診・質問表からいえることは、まずもって患者の自覚症状が最も重要で、かつ基本である、というその根本姿勢である。患者の自覚症状、とその訴えが、最も正確な情報なのである。
何を当たり前のこと言ってるんだ、と思うかもしれない。が、患者のその訴えが、医療の現場で何故か「却下」されるケースが余りにも多いので、その実状を憂えている私は、あえて強調しているわけである。はっきり言おう、一番困っている当の患者が、自分の症状について嘘付くわけねぇじゃねぇかっ!!
すべてを記入するのに、1時間近くかかったろうか。案外大変でくたびれた。けれど、こんなに詳しく身の廻りの環境や症状のことを尋ねてくるものは初めてで、何というか非常に意を強くした。
やっぱりこの病気は、ちゃんと存在している・・・
5ヶ月待ちというのは、正直けっこうしんどいものがあった。本当はすぐ、明日にでも診てもらいたいくらいなのだ。でも待とう。これは必ず、大きな前進になる。なるはずだ。
丁寧に封をして、また北里病院へ返送した。
さて5ヶ月後、どうなるか。
やっとここまできたんだなぁ・・・
白いふかふかソファーに座り、目の先の「診察室」をじっと見つめながら、私はそう思った。5ヶ月待ちというのはやはり相当長く、その間もどんどん身体がおかしくなってゆくので、待っている最後の頃はもう、半ば祈るかのようだった。早く、早くこの日になってくれ、と。
それはたぶん、この同じソファーに座って待っている他の患者さんたちも、同じはずだ。何日も何ヶ月も、ことに依ると何年も、この日が来るのを待っていたのではないか。
想いはおそらく、私も彼らも寸分違わない、
診断を貰いたい。
「化学物質過敏症」と、正しく診断してもらいたい。
普通とは逆なのだ。病気ではないことを望んでいるのではなく、間違いなく病気であることを望んでいる。検査や医師の所見に基づいて、医学的見地から正しく「化学物質過敏症患者」であると、認定して欲しい。
私たち患者にとって、「化学物質過敏症」の診断を得ることは、ほとんど「身分証明書」を得ることに等しいのである。
だから、うっすらと漂っている不安感というのも、通常とはまた逆なのだった。
もしも、自分が化学物質過敏症と診断されなかったら、どうしよう・・・なのだ。そうなったらまた、あの混乱と混沌の渦の中に逆戻りになってしまう。何もかもがわからない、自分で自分の精神までも疑うような、あの大混乱の渦の中に。一本のか細い糸を手繰るようにして、やっとこの病院に辿り着いた人ばかりなのだ。だからその不安も、痛い程わかる気がした。自分がまさに、そうだったから。
「お待たせ致しました、では皆さん、ご入室下さい」
やっと看護師さんがやって来て、私達に告げた。一同期待を胸に立ち上がる。そしてあの、二重ドアの向こうへと足を・・・み、魅惑のクリーンルームの扉が、ついに・・・!!
・・・あらぁ?
どんなに素晴らしい空気なのか、と思っていたのだが、案外そうでもなかった。外と内とでも、そう変わらん気が。私はあまり、「におい」を強く感じないタイプのCSだったので、余計にそう思ったのかもしれない。
確かに、内の方がかなりマイルドな気はした。でもこう、森とか高原とかの、サワヤカーな清涼感あふれる空気・・・とかではない。むしろやや、もったりとしている感じがする。ううむ、やっぱり巨大ではあっても空気清浄器で“作った”空気というのは、限界があるのかもしれない。都会のど真ん中だもんなぁ、ここは。天然自然の空気には、やはりかなわないということなのかしらん。
入室するとまず、ロッカールームで着替えるよう指示された。下着を残して、あとはすっぽり全部着替えるという。
ロッカーに入っていたのは、生成り色した、オーガニックコットン100%の服だ。上は、前で合わせてヒモでくくるタイプのもので、下はだぼっとしたズボン。ちょっと作務衣か甚兵衛みたいな感じ。同じ素材のタオルと靴下も借してくれる。
なんかこれって・・・
着替え終って見渡すと、老いも若きも男も女も、全員このタオル地っぽいだぼだぼ甚兵衛姿。どうもだんだん、温泉か健康ランドに来ている御一行様、みたく見えてくる。タオルを首にかけたりするとこれがまた。ホントにここは病院か!?いや何か笑える。同じことを思ったのか、隣のロッカーの女性も苦笑していて、思わず2人で笑い合う。
着替えが済むと、今度は小さなラウンジのようなところに通された。そこでまた少し待たされる。最初は皆黙っていたのだが、まったく同じ格好をしている気安さもあってか、どちらからともなくしゃべり始める。もちろん話は、自分のCSのことだ。
私はシックハウスです。新築の家に入ってやられちゃって。もう身体のあっちこっち全部おかしいですよ。鼻とか唇のふちがね、切れちゃうんですよ、こうカミソリで切ったみたいに、スパッと。だからマスク、ちょっと外せないんですよー
と、30代半ばくらいの、マスクをした女性が言う。
あ、僕もシックハウスです。新しいマンションに入居したら、なってしまって。体調、ものすごく悪くなりますよね。僕も毎日会社行くのがやっとです。排気ガスがね、もうつらいんですよ
そう言ったのは、やはり30代くらいの若い男性だ。サラリーマンらしい。車の排気ガスと聞いて、俄然私は身を乗り出す。
私も排気ガスは全然ダメです!一度なんて倒れましたよー
そう言うと男性の方も、
いやわかります。くるしいですよねー。僕も部屋にいると、窓から排ガスがじわーっと入ってくるのがわかるんです。反応してしまうから、もう身の置き処がなくて・・・
あ、それ私も。何しろ私の家の裏が、輸送トラックの発着場なんです。もう早朝から夕方遅くまで、ガンガンアイドリングしてるの!おまけにもう少し先にはごみ焼却場まであって。窓なんてもう1センチも空けられない
と、また別の女性が言った。さっきロッカーのところで私と笑い合った女性だ。う、うへえ、トラックの発着場が家のすぐ裏ってそれは・・・。
どっか、逃げらんないんですか?
と思わず私は訊く。
本当逃げたい!逃げたいですよもう!毎日毎日苦しくて・・・地獄で。でも主人は全然平気な人だし、子供の保育園もあるし・・・。私以外は今のところみんな大丈夫だから、我慢するしかないんですよね・・・本当は空気と水の良い、どっか田舎に引っ越したいですよ。毎日そう思ってるんですけど
わかります。本当そうですよ。人間に必要なのは結局、きれいな空気と水なんだ、ってすごく思う。私も田舎行って住みたいなー。でも田舎だと、働き口がねー・・・
マスクの女性がそう言った。
話してみるとどの人も、かなり過酷な状況下にいた。逃げたくても逃げられない、さまざまな事情が絡まりあい、おいそれとは脱け出せない、そんな化学物質環境に。
けれどどの人も、不思議と口調は明るかった。カラッとしていた。どろどろと悲愴感漂わせているような人は、いない。皆冷静に、自分の置かれている状況をしっかりと見据えている。この不思議な落ち着きは、どこからくるんだろう・・・?
また何より、どの人も今こんなふうに、患者同士何の注釈も説明も、そして遠慮もなしに話が出来ることを、心から楽しんでいる気がした。たぶんその喜びの方が勝るのだ。言えばスッと相手に伝わることが、嬉しくて堪らない。私もそうだった。誰かが「わかる」と言ってくれるだけで、こんなにも心が軽くなるものかと思った。嬉しくて、ちょっと涙目になってしまったほど。
「同病相憐れむ」なんて意地の悪い人はいうが、しかし同病の人同士こそ、わかり合えることが確かにある。そして誰かが「わかる」、と一言共感してくれただけで、塞がってくる傷口もあるのだ。過敏症状がそれによって直接「治る」わけではないのだが、しかし少くとも心理的な「孤独」状態は、薄まる。嘘のない、心からの共感は、患者の足もとを支えてくれる。それが治療以上の治療効果を上げないとは、誰にも言い切れないはずだ。
近年、依存症やトラウマの治療ケアに、グループセラピーやオープンダイアローグ(※複数の患者が集まり、一人一人の話を全員でただ聞く、というもの。批判や横やりは入れず、ただ黙って聞く、というところがポイント)を取り入れ、その効果も実証されつつあるが、CSにおいてもそういった試み、“場”は必要なのではないか、と思うのだが。かなり切実にそう思うのだが。
看護師さんがやって来て、ほんの束の間のこの患者親睦会も終了。あぁ~、残念。
で、さあ診察!と思いきや、そうではなかった。
「このまま30分、ここに居て下さい。クリーンルームのこの空気に、身体を慣らして頂くためです。その間ビデオを流しますので、どうぞ御覧になって下さい」
と看護師さん。そして置いてあるテレビで、ビデオ映像が始まる。内容はCSの解説だった。大体知っている内容なので、私は少々退屈する。あのまま皆さんでおしゃべりしてたかったなぁ・・・いやどうでもいいけど、テレビモニターまで、がっちりしたステンレスの箱に入ってるじゃないか。機械の臭いを放散させないためなのだろう、こんなとこまで配慮、すっごいなぁホント・・・。
当時は、少々退屈だったこの30分の身体慣らし、空気への馴化(じゅんか)。しかしこれも実は、かなり大きな意味、意図があるものだったのだとは後で知る。医療側はここで、我々の身体にある〝変化〟を起こさせようとしてたのだ。
それが、「マスキング」の解除、である。
で、「マスキング」って何?って話なのだが、その前に「適応」と「離脱」についての話をしないといけない。この「適応」と「マスキング」と「離脱」は3点セットの現象で、CSを理解する上では欠くことの出来ないものなのだからして。話は少々入り組むが、ちょっとガマンして読んでみて頂きたい。
私たちの身体は、常日頃からさまざまな「刺激」に曝(さら)されている。化学物質や電磁波をはじめ、音や光、温度や気圧の変化なども、身体にとっては「刺激」である。そしてそれらが許容範囲、限度を超えると、身体にとってはストレス=毒となる。つまり負荷、負担になるわけだ。
しかし身体は、それら「刺激」に対してあるところまでは、耐えて我慢する。いちいち「刺激」に対して反応していてはそれこそ身が保たないので、刺激を受け取りつつも、平然としている。微妙にあちこちを調節しながらも、身体を一定の状態を保とうとする。
この「一定の状態に保とうとする」作用のことを、「恒常性(こうじょうせい)(ホメオスターシス)」という。
この恒常性は、私たちの意識や意思の介在なしに、身体が勝手にやっていることだ。いわばオール自動調節機能、みたいなもの。
この恒常性が働いているため、私たちは刺激に対していちいち反応しないで済む。恒常性機能でもって刺激を平然とやり過ごしている状態、これが「適応」である。要するに、「慣れ」ってことですね。
しかしこの「適応」にも限度、限界がある。許容量を超えて「刺激」が増えてくれば、身体は害されてくる。頭痛、疲労感、各所痛み、アレルギーの悪化、うつ、などはそのサイン兆候だといえる。
なのだが、恒常性が働いているため、負荷はけっこうかかっているのに、依然として私たちには何が原因なのか、わからない。「恒常性」という大きな蓋を上からかぶせているようなもので、だから反応性自体が表に出ず、隠されてしまうのだ。
この、恒常性機能によって反応性が表に出てこない状態のことを、「マスキング」という。マスク=仮面をかぶっちゃってる、わけである。
「反応しないのなら別に構わないんじゃ?」と思うかもしれない。が、わからないがゆえに刺激の負荷、ストレスはずっとかかり続けるわけで、身体もそれによって害され続けることになる。
そのため、原因不明の身体症状が次々と身体に起きてくる。押し付けた「恒常性」という大きな蓋の横から、ニョロッとはみ出してくるかのように、頭痛や疲労感、身体の痛み、アレルギーの悪化やうつ、等々が出てくる。
でも原因はわからない。
じゃどーするんだよ⁉って話ですよね。いやいや方法が、一つあるのです。
その原因物、「刺激」から離れることだ。離れて、身体を一定期間その刺激を受けない状態にすること。これが「離脱」である。
「離脱」状態になると、マスキングは外れる。解除されるのである。そして隠れていた本当の反応性が、表に出てくる。どうもこの「離れる」というのが、大きなポイント、ミソであるようだ。
実例を上げてみよう。
ハーバート・リンケルという、アメリカの医師がいた。この「隠れ型反応」ともいうべき生体反応に、最初期に着目した人物である。それは自らの、こんな実体験に基づいていた。
まだ若い医学生だった頃、リンケルは大変に貧乏で、生活も苦しかった。早くに結婚してしまい、子供も2人いる。
なので食事のタンパク源は、カンサス州で農場を営んでいる父親が毎週送って来てくれる、1グロス(約144個)の卵に頼っていた。家族4人で一日一人当たり、5個程食べることになる。かなりな量だ。
卵を多食するようになると、リンケルはひどい鼻炎に悩まされるようになった。くしゃみと鼻水がひっきりなく出て止まらない。何度か医者に行ってみるものの、原因はわからず、症状も一向に治まらなかった。
これは卵によるアレルギーでは?とそう考えたリンケルは、自分の身体で実験すべく生卵6個を一気飲みしてみた。が、特に身体には何の反応も出てこない。何だ、卵じゃないんか…。
ところが。それからしばらく後、今度は別の考えから特定の食品を一定期間食べないようにする、つまり除去食の効果を試していたリンケル。たまたま卵も、その除去食リストの中に入っていた。
卵除去食の、その6日後のことである。友人の結婚式のパーティーがあり、リンケルはそこで、出されたケーキをほんの一口食べた。たぶんおそらく、かなり無意識に。
と、その2分後。突然リンケルは脱力して卒倒、その場で気絶してしまった。数分後意識は取り戻したが、周囲は騒然、本人は呆然。何が起こったのか、まるでわからない。
が、しかしそこは医者である。リンケルはすぐに、「これは食物アレルギーの根本的な性質に関わる、何か重大な現象なのではないか」と考えた。
つまり、卵を多食しているときはかえって反応は隠されてしまい、しかし卵を一定期間断つと、真の反応性が表に出てくるのではないか、と。反応する物を一定期間避けることで、何かが起きるのだ。
この仮説を基に、リンケルはもう一度、自らの身体で実験してみる。数日間卵を除去し、その後わずか食べてみた。すると仮説通り、やはり卒倒し気絶した。うむ、間違いない。
この自らの体験が、「隠れ型アレルギー」の発見につながった。その後数年をかけリンケルは、臨床例を充実させ、この事実への確信と自信を深めてゆく。
1936年、リンケルはこの「隠れ型アレルギー」を論文にまとめ、発表した。しかし有名アレルギー誌からはことごとく発表を拒否され、以後8年間、リンケルはこのことに腹を立て続けた。そしてこの「隠れ型アレルギー」の存在も、アレルギー学界の主流から外され、闇に葬られていった。
話はぐるりと大きく廻って、また北里病院クリーンルームに戻ってくる。
つまり、そういうことだったのだ。ここがこれ程徹底したクリーンルームにしてある理由は、何も患者に負担をかけないため、とかじゃなかったのだ。(いや私はてっきり…)
「離脱」のためである。身体を離脱状態にして、マスキングを外させるため。その状態にして初めて、化学物質への反応が表に出てくる。中枢神経と自律神経の異常を、他覚的データとして測定することが可能になるのである。それがつまり、私が「化学物質過敏症患者である」という、確たる証拠になるのだ。
これが食物アレルギーならば、その食品を摂らなければ「離別」は出来る。だからある意味簡単だ。しかし相手が「空気中の化学物質」である場合は、まず取り除くのが容易ではなく、だからこれ程大がかりな設備が必要になってしまうのだった。うーん、大変。
同時にまた、こうも言える。こんなにも配慮に配慮を重ねて、「クリーンな空気」を人工的に作り出さねば「離脱」に至れないほど、我々の今いるこの世界の空気は、化学物質で汚染されている、ということだ。つまり私たちは、もしかしたら日常的に、つねにマスキングされている状態、にあるのかもしれない。
さて、マスキングは外れた。私たちの身体の奥深くに隠れていた、それまでは仮面をかぶり素知らぬフリをしていた、本当の反応性が表に出てくる。やっとその顔が現れる。このクリーンルームによって、ようやくあぶり出されてくるものだ。
私たちの身体は、化学物質によって何をされているのか。どこをどう害されているのか。
何が、狂わされているのか。ということが。
<<参考文献>>
- 『科学物質過敏症対策[専門医・スタッフからのアドバイス]』水城まさみ 小暮英朗 乳井美和子著 宮田幹夫監修 緑風出版 2020年11月
- 『化学物質過敏症BOOK 症状・原因・しくみ・診断・治療』 北里大学名誉教授 宮田幹夫著 AEHF JAPAN 2007年10月
- 『ランドルフ博士の新しいアレルギー根絶法』セロン・G・ランドルフ ラルフ・W・モス著 桐書房 1994年10月
※これは2,000年当時の話です。現在北里病院では、これらの治療は行っていません
(このページは昨年3,4月にブログで公開した物語を1つにまとめたものです)