CS三界に家がない!

9-2 どうやってもここには住めない

「だからね、結局化学物質過敏症の患者は、どこか環境のいいところへ行って、そこに自分たちで安全な家を建てて、そこで暮らすしかないんですよっ‼」

電話口の向こうで、七尾みち子さん(仮名)は、ほとんど叫ぶようにそう言った。私がべそべそと泣きながら、絶望的なことをえんえんと言い続けるのに業を煮やしたんだろう、バシッと叩きつけるような口調だった。

言われた瞬間は、いやそれはそうだけどそれが出来れば苦労は…とそう思った。そんな簡単にはいかないから、こうして相談してんじゃないですか…とも。

しかし七尾さんは、まさにそれをやってのけた人だった。

日本でまだ「化学物質過敏症」という病気のことがほとんど知られていなかった最初期に、七尾さんはCSを発症した。情報もその対処法も何もわからないなか、彼女は自らの身体を「実験台」にし、一つ一つ「CS患者の生活のやり方」を編み出していった。そしてそれを他の患者さんにどんどん伝えていった。七尾さんの発信したその情報で、幾人の患者が重症化を免れたかわからない。

七尾さん自身、一時はほとんど寝たきり状態になったという。そこから奮起し、環境のいい安全な土地を探し、夫を説得して家を建て、移り住んだ。体調は劇的に回復していったという。

その人が、こう言うのだ。

空気のいい、環境のいい場所へ移り、そこに安全な家を建てて暮らす。それが回復の道につながる。

これは基本ラインだ。CSの”セオリー”みたいなものだ。「化学物質を避ける」こと、それしか根本的な治療法はないというこの病気の性質上、それは当然の帰結だった。

七尾さんは私に、気休めや慰め、励ましといった甘い言葉をくれる代わりに、この基本ラインを示したのだ。バシッと、叩きつけるように。「本当のこと」を。それがどれだけ難しいことかも十分知った上で、こう言えたのは、まさに七尾さん自身がこの病気の当事者だったからだ。

私ははっとした。涙は止まった。

実際もう、それしか方法はないことも確かだった。どんどんどんどん、状況は悪くなっていった。

時計の針を、またくるくると逆回しして、2000年時点まで話を戻そう。

場所は、東京都M市。そこのニュータウン団地。4階にある我家のその窓からは、目の前に建つごみ焼却場の巨大煙突が、ニョッキリと見えている。今日もその口から白い煙を、フヨフヨと吐きしている。有象無象化学物質の、カタマリを。

あああ何だってまた、こんなところに。こんな、目と鼻の先の距離によりによってごみ焼却場があるなんていう家に、わざわざ引っ越してきちまったんだぁぁぁぁっ…CSなのに。私CSなのに。とそう何度そう思ったか知れない。(そこら辺のやむにやまれなかった事情は、5-8「ド阿呆な引っ越し」をどうぞお読み下さい。)

この家に住んで、半年以上が過ぎていた。

その間、北里病院を受診したり、身の廻りの化学物質を減らすべく合成洗剤の類をオール撤去したりと、対策はしていた。食べ物を有機に、水を天然水に、フロには浄水器を設置。汗を出すのが体内化学物質の排出に良い、と聞けば、駅前のスポーツジムで慣れないバイクをえいえいと漕いでみたり、銭湯に行ってサウナだけ入ってみたりもした。

それでも、体調は良くならなかった。じわりじわりと、悪くなっていった。そしてある日、突然、それは始まった。

奇ッ怪な「発作」が、起きるようになった。

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