北里病院へ、行った話<奇妙な診察編>

5-19 杉並病と化学物質過敏症

郷里和歌山に戻った星谷も、安全な暮らしとは程遠い日々だった。近所で頻繁に燃やされる家庭ごみや野焼きの煙、排水より立ち上ってくる合成洗剤のにおい、車の排気ガス…どこへ逃げても何かが追いかけてきて、身体は反応した。激しい症状が出て、そのたびに倒れて寝込むことになる。繰る日も繰る日も、その繰り返し。

『目の奥を熱い錐で突き刺されるような激痛、脳みそがチリチリ音を立てます。意識を失くすことも多々ありました。針のような熱い空気が頭皮を突き刺します。針ネズミのような棘のある空気が喉の奥から食道を通ります。動けなくなります。明日は目が覚めないだろうと思いながら布団に入ります。でも目が覚めます。また地獄の一日が始まります』(前掲書「被害住民の最近の手記」P207より)

津谷裕子も星谷昇子も、わずか2ヶ月の間、杉並中継所からの汚染空気に濃厚に曝露し続けたことにより、身体が「感作性」を獲得、以後化学物質全般に反応するようになってしまったのだった。

この状態はつまり、「化学物質過敏症」そのものだった。実際に2人とも、北里病院の富田幹夫医師の診察により、化学物質過敏症との診断を受けている。〔※当時「化学物質過敏症」は病名登録以前だったので、「中枢神経機能障害、自律神経機能障害」となった〕

この2人ような被害住民が、その背後に数百人近くいた。杉並中継所の稼働は、その周辺に住む住民たち広範囲に、甚大な健康被害を与え、なおかつ「化学物質過敏症」という完治の難しい、半ば不可逆的な病を、引き起こしたのである。

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