一度「心因性」だと思うようになると、それは簡単に次のような考えに転がる。
なら、その精神、「心持ち」の方を変えればいいのではないか。もっと社会に出よう、いろんな人と積極的に交流しようと思い、実行すればいいのではないか。要は何事も、「気の持ちよう」、なんじゃないか。
何であれ、自分の精神次第、気分次第、なのだという超マッチョな精神論に、なり替わってゆく。何事も気合、やる気、根性だ!
それで懸命に、意識変革、行動変革してみるわけである。アルバイトを始めてみたり、ボランティア活動に参加してみたり。
しかし最終的にはいつも、「疲労」で挫折した。「疲れて」バイトは続けられなくなり、「疲れて」ボランティアも行けなくなる。周囲はその理由に驚き呆れた。疲れるって・・・、そりゃ仕事すれば少しは疲れるよ。果して、身体が鉛の塊のようになって動けなくなるのを、「疲労」というのかどうか。
しかし、一度「心因性」だと思ってしまうと、それすらもまた、「心因性」が原因だと思うのだ。自分でそう思う。仕事に対する、ほんのささいな否定的感情が、「疲労」の引き金になったのではないか。そんなふうに考えたから、症状がまた出てしまったのではないか。だってその証拠に、症状はまた出ているじゃないか。
「心因性」の罠である。症状が出ればどっちみち、それは私(=患者)のせいだということになる。「気の持ちよう」を変えて、もっとリラックスしよう。明るく前向きに。そんなふうに暗く考えているから、身体も治らないんじゃない?
「心因性」の罠である。いやほとんどこれは、呪いである。
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